2009年7月29日水曜日

戯曲と演出についてーその3−

 現代演劇における戯曲、脚本、台本(この順に上演との関係が強くなっていくように思います。)の位置づけを、どのように考えればいいでしょうか?

 まず、現代演劇は劇場からついに解放されました。「現代演劇の様式」などという言葉が無意味なことは明らかです。この出来事は西洋演劇の歴史からみて革命的な出来事です。近代の「革命家」達の暴力によって、ギリシャ悲劇から綿々と続いてきた「劇場」は、切断され、溶かされ、丸裸にされて、演劇空間の発生装置から単なる地図上の目印へと、すっかり成り下がってしまいました。もはや劇場が主役になるにはブロードウェーのセルフパロディーに頼らなくてはいけません。
 では、脚本が主役に躍り出たかというとそうでもないようです。むしろ演劇は脚本からも解放されてきたと考えるべきです。もちろん、近代以降のオーサーシップについては考えてみる必要を感じていますが、それはまた今度ということで。
 演劇の主役交代劇(なんだか面白いフレーズです。)として、

劇場(様式) → 脚本(家) → 演出(家) → 役者 → ?

という図が書けるのではないかと推測してみました。演出家が脚本家から主役を奪い取るべくがんばった時期が第二次世界大戦を挟んだあたりにあったようですが、勉強不足なので立ち入りません。役者への交代には、ワークショップや集団創作的な上演手法が考案され一般的になっていったことなどをあげることができると思いますが、これが演劇全体の流れとして上演スタイルへ主役交代といえるほどの大きな影響を与えたかというと自信がありません。その先についてはもはや演劇というメディアに可能な範囲なのか、検証する力を持ちません。

。。。「今後の課題にしたいと思います!!」

 なんだか頼りない調子になってきたのでそろそろ結論にしたいと思うのですが、このような流れが大まかにでもあると仮定すると、それは演劇のカギが、より「いま・ここ」の人の手に握られるようになってきたことを示しています。成立した時期など人々の記憶の彼方の様式に縛られた状態から、劇作家が個性を発揮する時代へ、それから演出家がひとつひとつの上演について独自の表現を見せるようになり、やがて上演時、まさに「いま・ここ」に存在するひとりひとりの役者の手へと、主役のバトンは渡されてきたのです。
 ここにきて、わたしたちが戯曲、脚本、台本に対してとるべき態度のあり方が少し見えてきたと思います。自分や創作をするグループの目的や意図に応じて読めばいいということでしょうか。もはや脚本は上演に先立つものではありません。そもそも、現在演劇に携わる人で、脚本に演出のすべてが書かれているなどと考える人がどれだけいるでしょうか?脚本は、衣装や小道具と同じように、仕えるのではなく使えばいいのです。

 たわまがの戯曲を読むという活動は一見すれば、脚本を主役にすえた「脚本に仕える」活動に見えます。一方で、わたしたちのあまりに脚本が主役の演劇に慣れている姿勢を見つめ直すため、脚本をよく読み、意見を交わすことで、様々な視点や解釈に気づく契機とする、「脚本を使う」活動としてみれば、たわまがはとても現代的な視点をわたしたちに提供していることになります。

戯曲と演出についてーその2−

 シェークスピア研究の世界では、エリザベス朝時代の上演時の演出を明らかにしようという試みは早くから行われてきたようです。これは古代に比べると残存するテキストの量はもちろん、舞台構造や装置や当時の社会風俗などについての情報量が多いことが大きな理由です。(なにせ時代が違います。2500年前に比べれば400年前のシェークスピアの時代はつい最近です。その頃にはすでに印刷が普及していました。)
 舞台全体についての豊富な情報を持った上で、はじめてテキストから演出を読み解くことができます。ジュリエットのバルコニーは舞台に常設の2階部分があったことを知っていれば、ハムレットの父の亡霊は舞台に床下から迫り上がる特殊装置があったことを知っていれば、上演時の光景を想像する大きな助けになります。こうなると脚本を与えられればある程度は演出を思い描くことができるでしょう。シェークスピアの脚本が詩的に美しいというだけでなく、現在でもプロの劇団から高校生まで無数に上演されているのは、ストーリーの普遍性に加え、このような性格を持つからとも言えるかもしれません。

 一方、カビ臭い写本とにらめっこを続けていたギリシャ悲劇の研究者達は、ようやくルネッサンスの光を浴びに修道院の薄暗い書庫から劇場へと出てきたのですが、不幸なことに彼らの劇場はすでに廃墟でした。たしかに彼らの研究はテキスト解釈への新しい視点をもたらし、一定の成果を上げたでしょうが、劇場を取り巻く環境についての情報が非常に限られている以上、2500年前の光景を再現してみせる試みにはやはり限界がありそうです。そうなると上演台本としてのギリシャ悲劇は魅力に乏しいことになります。近年やはり数多く(さすがに高校生はやらないか)上演されるギリシャ悲劇は、古代のテキストの忠実な翻訳を台本に使っているとしても、様式についてわかっていることを申し訳程度に導入した、きわめて現代的な演劇となっています。

 ここまで西洋演劇の2大トピックを題材に戯曲と演出の関係について書いてきましたが、では、現代演劇についてはどうでしょうか。最後に少し考えてみたいと思います。

戯曲と演出についてーその1−

ひっそりと更新したいと思います。

 大学で古代ギリシャ悲劇を研究しています。

 ギリシャ悲劇は今から2500年前の祝祭で3万人の観客の元で上演された、西洋演劇の元祖です。その上演様式に興味があるのですが、考古学的なアプローチでは限界があるようで、というか、あんまりよくわかっていないようです。仮面劇で、役者が3人と合唱隊が演じ、歌と踊りに彩られ、日の出から日の入りまでぶっ通しで上演されたようなんですが、わかってるのはその程度で、実際どのような演出の元に上演されていたかについては、掘っても掘ってもあまりよくわからないようです。

 そこで重要になってくるのが、テキスト読解です。三大悲劇詩人と呼ばれる古代の劇作家の作品が30作品ぐらい現在に伝わっているのですが、これらの作品の読解を通して演出を明らかにしていこうという試みが多くの成果を上げています。
 もともとギリシャ悲劇は「言葉の演劇」と呼ばれていて、ほとんどの動作はせりふによる説明とともに行われます。たとえば、「おお、あそこにきたのはソクラテスではないか!」、とすでに舞台上にいる誰かが言わない限りソクラテスは舞台上に現れません。そのような性質が読解から詳しい演出を明らかにすることを可能にしていると言えます。(もっとも、「言葉の演劇」としておくことで、読む人々が古代の円形劇場の情景を想像できるようにしたという面もあると思います。なにしろ「言葉しかない」のです。)なので、ギリシャ演劇のテキストにはト書きがありません。もっともこれは、劇作家と演出家が同一人物だったという事情も影響しているでしょうが。

 上演時の演出に迫ろうという、このようなアプローチは比較的新しいもので、ここ2、30年の間に出てきたものです。それまではいかに完璧な台本を復元するかが最も重要な研究目的でした。(近代的な古典文学研究が始まったのはせいぜい200年前ぐらいです。)現代に入って新しいアプローチが出てきたのは、もちろん従来の方法の行き詰まりもあるでしょうが、比較文化研究の方法が確立され、シェークスピア研究の方法が取り入れられたことが大きいようです。

もう少し、この話を続けたいと思います。

2009年7月15日水曜日

ポエケットで朗読をしました!

 7月12日に開催された、TOKYOポエケットin江戸博で、朗読をさせていただきました。これは「たわまが」としての活動ではないのですが、朗読したのはたわまがメンバーだし楽しかったからここに書いちゃえということで。

 さて、読んだのは河野聡子さんの『使命ビーム』という作品です。普段のドラマリーディングとは違って現代詩を、それも多くのお客様の前で読むということで、3回ほど稽古をしてから朗読に挑みました。 

 マイクをあえて用いなかったり、ステージ上を動きまわったりするパフォーマンスが、どのように受け取られるのか心配だったのですが、多くの方に喜んでいただけたようで安心しました。


「声が良く通る」「回転するときの軸がしっかりしている」(ステージ上でくるくるまわるシーンがあったのです)など、良く観て下さってるなと思う感想を直接いただいたりして嬉しい限りでした。

2009年7月10日金曜日

今日

ふたたび『毛皮のマリー』の話になりまして、
「序盤が大事。なのではないか?」とのこと。
お芝居の話は、なぜこんなに熱くなれるのか。

みんな、熱くなれよっっっっ!


作品名の表記は、「○○○」ではなく、
『○○○』が一般的ですが、この二重括弧というやつは、
どうにも美しくないと思いますが、どうでしょう。
直すなら今しかないのですが、、、


7/11追記

考えた。で、二重括弧を使うことにしました。
作品名は『○○○』でお願いします。
ま、そんなにこだわらず。

2009年7月6日月曜日

「たわまが」について−その2−

ブログ開始後の初開催が『毛皮のマリー』となりましたが、
「たわまが」の開催はすでに十数回を数え、
これまで数多くの作家、戯曲を扱ってきました。
「たわまが」メンバーの中には、自ら戯曲を執筆している人もおり、
メンバーが書いた戯曲を題材にすることもあります。

また昨年末には、活動の成果を生かし演劇の発表を行うなど、
戯曲の音読だけでなく、幅広い表現活動を視野に入れた活動をしていきます。

「たわまが」は、東京の外れ多摩のすみっこで活動中です。

『毛皮のマリー』検討−もはやただのおまけ−

次の話題は、、、

  B o y s ' L o v e
    
         です!!

これは、『毛皮のマリー』とは、違った文脈から出てきた話題だったのですが、
やはり、マリー様の強烈な印象がみんなに影響を与えたのでしょう。
「なぜ多くの女性がBLを嗜好するのか?」
社会学的、心理学的、精神分析学的観点から、
(多分にアヤシイ)議論が展開したのですが省略。
『毛皮のマリー』は現在の流行の先駆けだったのかもしれませんね。


デートで芝居を見に行くやつは馬鹿じゃないのか?
という話。
これは非常におもしろかったのですが、
あまりに内容のない話wだったので、省略。
あなたは大切な人とお芝居を見に行って、どこを、見ますか?


気づいてみれば、たわまが最長記録ではないかという時間になっていたので、
このあたりで解散。

『毛皮のマリー』検討−その3はおまけ−

これからはファミレスに場所を移して、まあいわゆる2次会ですw。
若干のアルコールを摂取しつつ。。。

今回は8名中3名が初参加ということで、
フレッシュな顔ぶれでの「たわまが」になりました。
これからもどんどん新メンバーを集めていきたいと思います。

さて、ファミレスでも話す内容はさほど変わらず、
さっきのカーテンコールの話の延長で、、、

演劇においていかにファンタジーを作り出すかという話は、
あるいは、こんな視点からも語ることができます。
現在の演劇は商業的な要素と切り離して考えることはできませんが、
(宣伝や広告など。それは入場無料の公演であってもまたしかりです。)
ポスターとか、ウェブサイトとかといった要素は、お芝居の作り出す
ファンタジーにどう影響すべきなのでしょうか。
そもそも影響すべきなのでしょうか?

お芝居の世界と現実の世界をはっきりと分けようとするのが、
ファンタジーを作り出す際の基本的な態度(いかに観客に夢を見せるか)だと
思いますが、もちろんそれだけが演劇ではありません。
逆にその境界を溶かして見せようというモチベーションは、
近代以降の西洋演劇の重要な特徴といえます。
演劇の起源を宗教的な儀礼の求めるのであれば、
演劇が始まったその時点が、もっともファンタジックな空間を作り出していた、
といえるかもしれません。(ワインが血に変わる!)
それ以降演劇は、舞台上のファンタジーに磨きをかけていくのですが、
一方観客は、どんどんファンタジーの外へと、より「ただの観客」になっていく。
舞台上では完全な一つの世界ができているのに、
劇場全体は非常に現実的な、政治的な構造ができあがっている。
この一見奇妙なねじれ現象が、今回の「カーテンコール問題」を
理解しづらくしていたように思います。

今度は「魔術」。
バッカスの力か、だんだん話が怪しくなっていきます。
演劇の起源が宗教儀礼なら、演劇のファンタジーは一種の魔術である、と。
観客にかけた魔術は、最後に解いてあげないと儀礼は完了しないのです。
解いてあげない魔術は「怪しい魔術」で、
『毛皮のマリー』はそれをやろうとしているのだという解釈は、
とても興味深いものがあります。だから「最後の晩餐」。
寺山修司が澁澤龍彦とかと親しかった(そして”あのミワさん”が演じた!)
ことを考えると、全く的外れともいえなさそうです。


もはや、『毛皮のマリー』は関係なりつつありますが、
話はまだまだ続きます。

『毛皮のマリー』検討−その2−

次の話題は、演出について。
「たわまが」はドラマリーディングサークルですが、
ほとんどのメンバーは実際の演劇の経験がある人達です。
なので、戯曲を前にすれば当然、実際の上演方法について話が及びます。
全体的な演出の方向性についてはやはり、「カラダ」をいかに美しく見せるか、
という話になっちゃいます。
一方で、「今」上演するならば、この「美しさ」が浮いてしまうのではないか、
という意見も出ました。
確かに、人間の身体をリアルに描くとするならば、
汚く、泥臭く描く方が今風かもしれません。
でも、この戯曲にはそれは通用しなさそうですね。

大正五十七年(=1967年)という時代設定から読めるノスタルジーだとか、
抽象的な舞台装置にショッキングピンクのバスタブがあって、とか、
具体的な演出の案も出てきました。
ただ、やはりあまり議論は深まらず。
メンバーそれぞれの頭の中には、バラ色の世界が広がっていると思うのですが、
なかなか具体的なかたちにするのは難しいのかもしれません。
私たちはまだ、作品の世界観について行けてないのかも。

解釈の方向から行くと、おもしろい話が出てきました。
ひとつは、美少女紋白は、欣也の想像上の存在ではないかというもの。
解釈の一つとしてはアリだと思いますが、それを元に上演すれば、
この作品のファンタジックな側面がより強調されそうで、
寺山修司の描く世界としてもなかなかふさわしいように思います。
もうひとつは、「観客が共感するように作ってはいけない!」という、
少々過激な意見。
理解を超えた世界を提示していることこそ、
この作品のオリジナリティだ、ということでしょうか。
前半の家族観についての議論と併せて考えると、
描かれる「家族」に対する反発(「こんなの家族じゃない!」)や、
擁護(「それでも彼らにはそれしかないのだ。」)といった、
理性的な反応の「外」に、この作品の主題を置くことになります。
確かに、そのような何か(オーラw)をこの作品からは感じます。


さて、最後に盛り上がったのは「カーテンコール」について。
この作品の最後、「ゆっくりと幕になる」のさらにあと、
役者達はカーテンコールで、歌を歌いながら、
最後の晩餐のポーズをとって並ぶという台本の指示があります。
そして、本当の「幕」となるわけですが、
これは作品そのものの完璧なファンタジーを作る意図と
矛盾するのではないか、という指摘がありました。
物語の外なのか、中なのか、存在が曖昧な演出の挿入によって、
現実と切り離されていた物語の世界が、我々の世界と混ざり合い、
物語のビジョンが濁ってしまうのではないかと。
これについては意外なほど話が盛り上がりまして、
・ただの悪ふざけ説
・まさに現実を浸食したいのだ、説
・舞台上で行われる以上、ファンタジーの一部をなすのだ、説
など、様々な意見が出ました。
これも結論を出す性質の問題ではなさそうです。
ただ、カーテンコールですら演劇の枠組みの一部として、
油断せずに考える態度は大切にしていきたいですね。


今回の「たわまが」の全体的な印象としては、
思いの外、「知的な」議論に方向が集中していた、という印象です。
メンバーの中には議論に参加しづらかった人もいたようで、そこは残念なところ。
最近若干この流れが続いている気もします。
たまには気楽に読める作品も読みたいですね。
寺山修司は、結構そういうつもりで選んだような気もするのですが。
どんな作品でも、難しく読もうと思えばできるものです。

『毛皮のマリー』検討−その1−

ここからはみんなで自由に感想、読解を披露し合います。
当然ネタバレ注意です。(以下の記述には、物語の結末や・・・、です。)

まず話題となったのは、やはりこの戯曲の「エロさ」について。
戯曲の随所にちりばめられた性的な描写は、
「今回のテーマは『勃起』!」という発言も出るほど。
同性愛、少年愛、近親相姦など、性愛の濃密な空気が劇中に充満しています。
エロいだけでなく、そこから匂い立つ「妖しい美しさ」も大きな特徴です。
非常に視覚的な芝居だという意見も当然と思われますが、
ここは「読むだけ」の私たちにとってはつらいところ。

でも、、、裸の男が絡み合っているお芝居というのは、
学生劇団を中心に演劇をやっている私たちにとって、
上演しようと思っても、実際、難しいところです。
それが「読むだけ」なら、ものすごい情景を思い浮かべればいいのですから、
逆に有利かもしれない!そんなことを考えつつ、、、(黙れ小僧!!)

しかし、ビジュアル一辺倒な理解はするべきでないという意見も。
また、60年代後半という時代を汲んで、
当時と現在とでは性のとらえ方が異なるのではないか、
とする問題提起もありました。
おもしろい意見としては、
「男性同士だから、舞台上で純粋なエロスを表現できる」というもの。
男女が舞台上でセックスをしていたらお客さんは恥ずかしくって見られない、
だけど、男性同士のそれであれば、観客は文学的エロスを読み取るのだ、
というのですが、みなさんどうでしょう?


話は、プロット(話の筋)についてへと移っていきます。
マリーと美少年欣也の関係を軸に物語は進みますが、
その関係のとらえ方は内容理解に大きく影響するでしょう。
とりわけ問題になったのは最後の場面。
一度はマリーの檻からぬけ出した欣也は、マリーの呼び声に応じて
あっさり(そう読めるでしょう)戻ってきてしまいます。
この理由は何なのか?この戯曲の最大ともいえる問題です。
この結末は、意外だったとする人とすんなり受け入れた人とで意見が割れました。

この問題を話す中で、話は徐々に広がりを見せていき、
上演当時の、あるいは作家の「家族観」へと及びます。
寺山自身の生い立ちや発言などから、作家が40年前の時点ですでに、
かなりフレキシブルな家族観を持っていたことが想像されるのですが、
それがどのような形でこの作品に表れているのか。最後のシーンは、
それを解明する大きなヒントになりそうです。

とっかかりとして、現代の家族像との比較が話の道筋をわかりやすくしてくれます。
核家族、母子家庭、あるいは家族内の様々な問題についてなど、
現代社会ではかなりオープンに語られるようになったテーマが、
この戯曲には隠れているということができるかもしれません。
初演当時の社会一般で、どれだけ伝統的な家族観が強力に根付いていたかを
詳しく知ることは私たちがこの場で明らかにできる範囲を超えてしまいます。
しかし、性倒錯、暴力、あるいは間接的にせよ殺人、
によって生まれた家族というモチーフが、
当時の社会にとって暴力的であったことは、想像に難くありません。

そのような家族に結局は依存せざるを得なかった欣也。
DVの被害者が加害者の元をなかなか離れられない、とか、
いじめられっ子がいじめっ子に呼ばれるとニコニコついて行ってしまうこと、とか、
身近な類例があがります。
結局家族に帰ってくるという点では、
この戯曲は家族制度を維持して終わっているという意見も。
マリーの母性と父性の両面的な性質、加えて欣也との性的な結びつき、
退廃的な家族という牢獄の中で、欣也は少女へと変身を遂げて幕が降ります。
イミシンすぎる。。。

結論には至りませんでしたが、理解は深まったのではないかと。。。
話はまだまだ続きます。

7月5日(日)『毛皮のマリー』

14時〜、「たわまが」が開催されました。
今回の戯曲は、

寺山修司作『毛皮のマリー』

です。
美輪明宏が主演したことでも知られる1967年初演の本作、
以降何度も再演を繰り返し、今年も(40年後の美輪明宏によって!)再演されるなど、
現在まで人気が続く、寺山修司の代表作です。


今回は8名のメンバーでの開催となりました。
せりふは全員が均等に読むために、ひとせりふずつの回し読み。
男性7名、女性1名の偏ったメンバー構成でしたが、
今回の戯曲に限っては、むしろ好都合だったかもしれません(ニヤリ)。

通読に要した時間は1時間ほど。
読むだけだとかなりコンパクトになっちゃう、という印象です。
回し読みということもあり、役作りやテンポの作り方にみんな苦労していたようですが、マリー様をはじめ強烈なキャラクター達のおかげで、混乱に陥るようなことはありませんでした。
「おかま」を演じるというのもそうはない機会、もう少し大胆に読んでみてもよかったのでは?と、思うところもありましたが、それぞれ読み方に個性と工夫が見られ、メンバーの「おかま像」的なものがかいま見えた音読ではなかったかと、、、


黙れ小僧!!


というわけで、早速検討に入ります。

「たわまが」について

「たわまが」とは、


  戯  たわむれに、
   曲  まがってみた。


戯曲(演劇の台本)の音読を通して、
演劇の過去、現在、未来を読み解く、
ドラマリーディングサークルです。

時代、ジャンル、言語にとらわれることなく、
テキストと自由にたわむれ、
偉大な、あるいは尊敬すべき作家の権威に溺れることなく、
せりふの上を自在にかけまわる、
かけまがる、
広大な地平に立った脚本理解を目指します。

2009年7月2日木曜日

このブログについて

このブログは、

ドラマリーディングサークル「たわまが」

の活動をお知らせしていくとともに、
戯曲、演劇を軸とした表現活動の場としても、
活用していく予定です。