2009年11月13日金曜日

『蚊取りの煙』〜その4、午前4時前〜

 とても良い作品です。
 あまり注目しませんでしたが、笑えるところもあって、それがまた切なさを引き立てるという、とても心を揺さぶられる作品でした。
 欠点をあげるとすれば、(最大の欠点は一番最初に書いてしまいましたが、)わかりやすすぎることです。(といって私がなんにもわかってなかったら面白い、っていうか、それはそれで問題です。)
 おそらく短編という制約のせいで、劇全体をうまくまとめようとする意志が働きすぎている、と思います。話が閉じすぎることはもったいないことです。今作の場合はこれが「バラの花」(うるせえ、気に入ったんだよ!)をつぼみとはいわないまでも、咲きかけか咲き始めぐらいにしてしまっています。触れたらバラバラに(バラだけに、、、ね。)なっちゃうぐらい開いているのが魅力の関口作品なので特にもったいないと思います。それに伴って、二人の人物に背景を与えるのに苦労している印象があります。


あと、、、ラスト、怖すぎやしませんか?

「・・・・・・折っといたから。もうしばらくしたら、消えるからね・・・・・・。」

は、どこかのなにかの、

「中に誰もいませんよ。」

レベルのおぞましさです。
でもこれは冗談で、よくやった!と思います。この作品はこのセリフがあって初めて、感動を生むことができるのです。本当に残念なのは短すぎること。これじゃあカタルシスしてる暇もないまま終わってしまいます。


というわけで、作品自体の倍ぐらいの文字数の感想を書いたってことで、この作品の魅力が伝われば本望です。

『蚊取りの煙』〜その3、ジッポー〜

※以下、ネタバレ注意!
 作品を読んでからの方が楽しめます。


ユミは部屋にくると蚊を見つけます。
寝ているマサのために蚊取り線香とジッポーを持ってきて、火をつけます。
煙で寝苦しいのではないかと、蚊取り線香を枕元から部屋の隅に移します。
マサが目を覚まします。

以上のことが幕が開いて最初の台詞までに行われます。
その後のセリフから、描かれているのはマサが肺ガンのために入院する前夜であることがわかり、明確になりますが、すでに冒頭のこの時点で、


   図1

     蚊取り線香  →     →   蚊  
               煙
     (   )  →     →  マ サ



 ( 問1  図1を見て( )の中に入る言葉を答えよ。 )


が、できあがります(ちなみに問1の答えの言葉は、劇中一度も出てこない)。

そして、この図によって、我々はこの戯曲を通して「死」を思います。マサが蚊に自分を重ねて語るにもかかわらず、ユミは平気で蚊をたたこうとします。このユミにとっての、蚊とマサという二つの「死」の大きな差が、上記の図が示されることで我々にむなしさを抱かせます。
 物語が始まった時点で二人はすでにある程度「死」を受け入れているように見えます。しかしそこには葛藤があり、その葛藤がこの作品を形作っています。二人がマサの死を受け入れかけていることは特徴的なセリフからも読み取れます。ユミの「実際死にそうだけど!」はあからさますぎて真意ととれないとしても、マサの「結婚してよかった!」はずっしりと重いでしょう。一方で、ユミが非常にマサの体を気遣う様子や、マサがふとした瞬間に見せた「さみしそう」な表情からは、迫る死を二人がともに、完全には受け入れきれていないことが読み取れます。そして全体を見渡したときに、二人の会話が作品を通して「芝居がかって」いることが、二人の葛藤を浮かび上がらせています。
 「芝居がかって」いること、つまり「死」を避けるのではなくパロディ化して消化しようとする二人の心の動きは「練習」のシーンで頂点に達します。「練習」のシーンは、その悲痛さで迫ってくると同時に、劇中劇構造を持つことで、作品の「バラの花」のひとひらとしても、我々に迫ってきます。練習には当然本番が想定されます。しかし練習を繰り返すうちに本番を忘れ、練習をすること自体が目的となる、そんな状態が二人の間に見て取れます。そして「本番」を忘れた安心感に包まれ、優しく二人の過去を振り返りながら、マサは眠りについていきます。二人の間にはおだやかな空気が流れますが、我々は震撼します。なぜなら「本番」を忘れた二人の「練習」は、その意味でそのまま「本番」なのであり、眠りにつくマサは、我々にとってはまさに死の本番を迎えているのであり、ユミがマサの死を受け入れた、その「意志」を、我々が実感することになるからです。
 この時点で、実際はマサが死んでいないことを考えれば、象徴的な意味でユミはマサを殺したのだとすらいえる、それぐらい強いユミの意志は、劇のクライマックスとしてのカタルシスにつながるものです。そしてそれは火のついた蚊取り線香を短く折り取り、さらにそれを発話する(「・・・・・・折っといたから。もうしばらくしたら、消えるからね・・・・・・。」)という、まさに象徴的なシーンに極まるのであり、ユミはついに蚊を殺して(ここまでくるとホラーとすら!)幕が下りるのです。

『蚊取りの煙』〜その2,引用〜

さてと、、、(あれ、いつの間にかその2になってる?)

 関口文子の戯曲の魅力は多層性と多義性にあると思います。一人の人間が書いたとは思えないような拡散した劇構造と、さりげない日常にみせかけた隠喩と寓意の世界。ところが、その「喩」は、ひとつの出来事やセリフや行為がひとつに意味付けられるのではなく(これってとってもリアル)、しかし意味が放棄される(「観客に投げかける」)こともなく、登場人物と我々の間に幾重にも意味が重なっています。
 どういうイメージかというと、、、



          薔薇の内部


      何処にこの内部に対する

      外部があるのだろう?どんな痛みのうえに

      このような麻布があてられるのか?

      この憂いなく

      ひらいた薔薇の

      内湖に映っているのは

      どの空なのだろう?見よ

      どんなに薔薇が咲きこぼれ

      ほぐれているかを ふるえる手さえ

      それを散りこぼすことができないかのよう

      薔薇にはほとんど自分が

      支えきれないのだ その多くの花は

      みちあふれ

      内部の世界から

      外部へとあふれでている

      そして外部は ますますみちみちて圏を閉じ

      ついに夏ぜんたいが一つの部屋に

      夢のなかのひとつの部屋になるのだ


      (リルケ詩集より、富士川英郎訳)※ググって一番上のブログから




先週授業で読んだってだけなんですが、この感覚だ!と思ったので。
バラの花びらが何枚も何枚も重なり合って、その「内部」を探そうと思っても、そこを内部にしている(包んでいる)花びらは別の花びらに包まれていて、その花びらもまた別の、、、とやっているうちに、「世界はバラの『内部』であった!」と。

関口文子のバラの花は、観客、読者である我々を包む、新鮮なやり方を見せてくれています。
今回の作品も、それがよく(若干わかりやすすぎる形で)表れているのではないでしょうか。

『蚊取りの煙』〜その1、絶句〜

たわまがメンバーの関口文子の短編戯曲『蚊取りの煙』が『せりふの時代 秋号』に掲載されています。
同じくメンバーの私が感想を書いてみたいと思います。

まず、大変残念なことに、この作品の絶望的な欠点をひとつあげなくてはいけません。
身内だからって容赦しませんよ。
その欠点とは、、、



選者(の講評)が絶望的にダメすぎるLOL



これは、、、ひどい、、、といわざるを得ない。
ちょっと紹介せざるを得ない。

「この作品の問題点から探って(中略)この二点に大いにガッカリした」

なぜ選んだ?

「それは、この二つの問題点を反転させたら、実に素晴らしい作品になると判断したから」

ん?なぜ選んだ?

「二人は夫婦でな(中略)い方が素敵な気がします。(中略)病名は必要ない(中略)方が良いかも知れません。つまり〈(中略)〉というプロットはどうでしょう。」

な、なぜ選んだ!?

「ここでの〈仕掛け〉は『良く判らない』ってことです。」

良く判ってらっしゃる、この講評が「良く判らない」ってことは良く判ります。

「そうすることによって、(以下略)」







な、な、なぜ選んだっっっ!!



この文章はこの作品を貶めています。まさに「最悪」です。
佃典彦って人ですけど、なんていうか、、、
日本の戯曲界は大丈夫か、、、っていうか、、、ダメです、、、

精一杯気を取り直して、本題は次を読んでね。