2010年2月27日土曜日

『人間ぎらい』その後

 記事を書きながら調べていたら気付いたことがあったので、補記。

 『人間ぎらい』はアレクサンドランという韻律に従って書かれた韻文劇だったという。知らなかった。。。アレクサンドランは弱強格六脚を一行とする韻律です。当時広くつかわれていた韻律のようです。モリエールの作品には韻文劇と散文劇の両方があるらしいです、興味深い。

 弱強格六脚というのは、音節ごとのアクセント(アクサンというべきかしら)をおく順番が、「弱く読む音節ー強く読む音節」の順番で六回繰り返されるもので、たとえば一幕一場の冒頭は、


PHILINTE
Qu'est-ce donc? qu'âvez-vous?
  弱  強 弱  強 弱 強

ALCESTE, assis.
                Laissez-moi, je vous prie.
                 弱 強 弱 強 弱  強

フィラント
  どうしたの?元気?

アルセスト(座っている)
  頼むから、放っておいてよ。


となって、1行の台詞を二人で分け合っている事になります。翻訳はスーパーいい加減です。私はフランス語はかじるほどもわからないので。二人で分け合ってるなら三脚が二行なんじゃないのといわれると、それは決まり事なので、としかいえないのですが、どれだけかっちりした決まり事なのかは以下をご参照ください。

Googleブックス: Le misanthrope: comédie


 弱強格はイアムボス(アイアンビック)という古代からある韻律で、ヨーロッパの言葉の通常の発音に近いとされています。韻文による劇ではありますが、当時の人は十分に親しみを持ってこの劇を見たことが想像できます。

 もういっこだけ。たわまがの時に話題になった場分けの問題について。登場人物が出入りするたびに、基本的には「場scene」が分けられるのですが、上の本の体裁を見ていると、なんとなくですが、場分けは本にするときのデザインの問題だったんじゃないかという気がします。

 それにしてもグーグルブックスは素晴らしい。ホントにこのままだと『日本語が亡びるとき』(水村美苗著)です。著者、出版社、大学、などなど日本語の人たちもがんばるべき。

2010年2月25日木曜日

『人間ぎらい』検討ーその2ー

 このように、「当時の現代」の貴族の姿をシニカルでありながらもリアルに描いたところにモリエールのおもしろさがありそうです。社会風刺は喜劇の常套手段ですが、『人間ぎらい』のそれはかなり辛辣です。アルセストは自分の潔癖な性格とセリメーヌへの恋心の間にはさまれて破滅していくかのようです。途中の滑稽な台詞回しが無ければ悲劇にもなるような、トラジコメディー的な要素を持っています。しかし全体としてはこの作品はやはりまぎれもない喜劇となっているでしょう。セリメーヌの「割り切った性格」や男達の間抜けぶりが喜劇的であるのはもちろんですが、物語の筋においてこの作品が喜劇であることに重要な役割を果たしているのは、アルセストの友人である好青年フィラントです。彼がアルセストが困難な状況に陥るたびに、「正論のアドバイス」を差し伸べます。結局いつもアルセストは彼の助言に反して自分をさらなる困難に陥らせる方を選んでしまうのですが、このフィラントの助言があることによって、必然的に破滅への道を選ばざるを得ないような「悲劇的な」状況と異なり、アルセストは常に正しい方向を選ぶ可能性を示されながら、自ら進んで困難に足をつっこんでいくように描かれているのです。観ている人間としては「こりゃ自業自得だ。」と思ったことでしょう。このフィラントの役割について漫才のツッコミのようだというのは言い得て妙で、なんとなく納得してしまいます。アルセストは「なんでやねん」「どないやねん」とフィラントにつっこまれながら、それでもボケ倒していきます。

 この作品に結末らしい結末は用意されていません。これまで見てきたとおり主人公が改心するわけでもなければ、劇的なラストシーンがあるわけでもありません。これもまるで漫才のようです。

アルセスト「もう俺は田舎にひっこんでやる!」
フィラント「もうええわ。」
二人   「どうもありがとうございました。」

17世紀フランスの貴族文化と21世紀日本の大衆文化が呼応するのは単純に楽しい発見です。いつの時代も笑いのツボは変わらないのですね。

 最後に、この時代とその前後の演劇をめぐる状況についての話題になりました。モリエールと同時代の劇作家としてはコルネイユとラシーヌをあげることが出来ます。二人とも悲劇作家ではありますがほぼ同時代を生きた人物です。この時代はフランスブルボン朝の絶頂期に当たります。貴族が最も豊かだった時代にフランス演劇の三大巨頭が現れたことは偶然ではありません。しかし、ありのままの人間を描くというモリエールの態度には、その後の啓蒙主義の時代を予感させるものがあるように思われますが、どうでしょう?

 演劇の歴史を追う時、中世ヨーロッパの「層の薄さ」は思わず「暗黒時代」という言葉を使いたくなるほどのものです。ましてテキストとして今日まで伝わっているものとなれば、いわんやなんとかをや、です。しかし、教会という文字通り聖域の中で大切に守られていた演劇がありました。次回のテーマはイギリス道徳劇。ハードルの高さを恐れないところがたわまがの強みです。

2010年2月24日水曜日

『人間ぎらい』検討ーその1ー

 話のテーマは他愛のない男女のいざこざで、デフォルメされた登場人物それぞれのキャラクターがおもしろおかしく描かれます。くだらないといってしまえばそれまでですが、いつの時代もこういう種類の話題が興味の的になるのだなあと、恋愛というテーマの普遍性を感じます。

 現代の私達が読んでも笑える台詞ややりとりもしばしば出てきます。ただ、私達が笑っているところを昔のフランス人も同様に笑っていたかは未知数で、その逆で昔のフランス人が大爆笑していたところを私達が素通りしていることも考えられます。そんなことを感じるのが登場人物達が自作の詩を批評しあう場面。物語の中ではこの詩の評価をめぐって裁判沙汰になるという何ともめちゃくちゃな展開を見せるのですが、主人公アルセストがこき下ろすオロントの自作の詩の「ひどさ」がいまいちピンとこないんですね。あるいはそんなにひどくもない詩に対してひどいことをいうことで、アルセストのひねくれた性格が強調されているのかも。詩の翻訳ほど難しいものもないかと思いますが、原文にあたる語学力がない者にとってはつらいところです。

 現代とのドラマツルギー感覚の違いはやはり話題になります。主人公の描かれ方が今の感覚と違うという指摘は興味深いですね。つまり、最近の物語だと主人公の成長とか心境の変化とかが物語の軸になることが多い一方で、『人間ぎらい』のアルセストは最初から最後まで頑固一徹、最後は田舎に引きこもると唐突に宣言して幕となります。この主人公の変化のなさが物語になるというのが今の感覚とずれているという意見が出て、さらにそれについて、コメディア・デラルテなど中世演劇のストックキャラクターの伝統の影響を指摘する意見が出ました。観点はかなり独創的ですが、当時のフランス宮廷でコメディア・デラルテが人気を博していた事などを鑑みれば、かなり的を射た意見といえるかも知れません。他にも時代的にはシェイクスピアとの関係も気になるところですが、もう少し知識が必要になるので今後の課題ですね。

 モリエールの喜劇について、彼の演劇史における功績はなにかという話。「ありのままの人間」を描いて見せたところに彼の新しさがあったのだという事について、『人間ぎらい』ではどのように人間が描かれているかというと、それはもう皮肉たっぷりに貴族社会が描かれています。誰にでも愛想を振りまく一方、当人のいないところでは陰口をたたきまくるセリメーヌのキャラクターはもちろん、彼女を取り巻く男性達はみんな戯画化されて「貴族によくあるタイプ」の人間を描き出しています。このようなシニカルな視点を作家が持っていたこと、そしてそれが当時の宮廷で人気を博したこと(太陽王ルイ14世の前で上演されたのです。)は面白い事実です。当時の貴族も豪華なドレスに仮面舞踏会、天蓋付きベッドで「パンがなければケーキを食べればいいじゃない!」みたいな生活をしながらも、「このままじゃいけないわ」と思っていた人も結構いたらしいということでしょうか。

2010年2月23日火曜日

2月14日(日)『人間ぎらい』

今回は、
モリエール作 内藤濯訳 『人間ぎらい』
です。
訳者は「ないとう・あろう」氏。『星の王子さま』の翻訳で有名です。

バレンタインデーですね。
行き帰りの電車の中でカップルを多く見かけるような気がするのが、
本当なのか、気のせいなのか、
もらえない人も、わたす人がいない人も「人間ぎらい」になりがちな、この季節、
いつもより張り切っていきましょう!!

 今回は私は音読には参加できなかったのですが、実際に読んだ参加者からは「意外に長かった。」という声。薄いとはいえ文庫本一冊分なのでそれなりに分量があります。加えて前回のギリシャ悲劇の時と同様、ひとつひとつの台詞が長いことが「体感分量」にも影響していそうです。

 もうひとつ、今回は参加者の平均年齢が若々しい。この勢いでたわまがを広げていきたいですね。

 では早速、内容を見ていきましょう。

2010年2月8日月曜日

『メーデイア』検討ーその2ー

 ここまで読んでいただいた方はもう感じているかも知れませんが、紀元前431年に上演されたこの作品の初演時の演出については、様々な研究が行われているにもかかわらず、ほとんどわかっていないといっていい状況であるようです。それは、台詞の読み方ひとつとってもそうで、ギリシャ悲劇は全文が韻文で書かれていて、合唱隊の歌の部分とメインの役者の台詞の部分では違う韻律が使い分けられていたりするのですが、合唱隊の歌のメロディーもわからなければ、役者がどのように台詞をしゃべっていたのかもわかりません。オペラにはアリアとレチタティーヴォがあり、歌舞伎は散文の台詞の部分と七五調の台詞の部分があったりしますが、オペラのように全編にわたって「音楽的」だったのか、歌舞伎のようにわりと「散文的」にしゃべっていたのか、もしくはその中間か、現時点では想像するしかありません。2500年前の上演を録画したDVDでも発掘されるといいのですが。

 読み方という点でもう一つ。みんなで朗読をした後、事前にストーリーの背景や大まかなあらすじについての解説をしたのが、とても助かったという声がみんなから上がりました。確かに私達にとってはなじみの薄いギリシャ神話の1エピソードを題材にした作品で、上演当時の観客はこの「元ネタ」についてよく知っていたと思われるので、予備知識が必要な部分はあるかも知れませんが、ここであがった反応は、単純に「読みにくい。」とか「話が入ってこない。」というものではないかと思いました。そしてその原因は翻訳にあるのではないかと私は疑います。元々、古代ギリシャ語を日本語に訳せる人間はそうはいないので、ほとんどの場合学者が翻訳することになります。そうするとどうしても日本語戯曲としての読みやすさや自然さよりも、原文との対応や文法の厳密さが優先されがちです。そうするとやはり日本語のみを読むことになる多くの読者は読みづらさを感じてしまいます。これには、「ギリシャ悲劇の格調高さを表したのであって、いたずらに口語体で訳せばいいというものではないのだ」という反論がありそうです。

 この点について、これからおそらく数作品の古い海外の戯曲をたわまがで読むことになるので、注目してみたいと思っています。シェークスピアの小田島雄志訳とか、「反例」もいくつか思い当たります。あるいは次回はモリエールの喜劇だそうで、喜劇だったらなおさら、今の人にそのイメージを伝えるのためには、カジュアルな翻訳が求められるのではないかと思いますが、、、といったところで次回もまた楽しみです。

2010年2月7日日曜日

『メーデイア』検討

 まず読んですぐにわかる、今までたわまがで多く読んできた現代の戯曲とギリシャ悲劇などの古典劇の間の大きな違いは独白の多さと長さです。物語は主人公メーデイアの心の葛藤が主軸となっていますが、作品にはメーデイア自身の長い独白が数回登場し、揺れ動く心情を描き出しています。そもそも「言葉の演劇」ともいわれるギリシャ悲劇は、動作よりも台詞で伝える部分が大きいという特徴を持っていますが、一文あるいは一言の台詞の繰り返しによる台詞回しに慣れた私達にはかなり異質な印象を与えます。独白は「演劇の華」だと私はなんとなく感じていましたが、確かにいままで現代劇を観たりやったりする中であまりみかけなかったことを再認識しました。

 一方で、長い独白の部分と対話の部分の使い分けについて指摘がありました。ギリシャ悲劇にはスティコミューティアー(一行対話)という、一行ごとに話者が入れ替わる、テンポのいいスタイルも持っています。やはり、スピード感や緊張感が必要なシーンに用いられているので、こちらは私達の感覚にもしっくりきます。ラストシーン近くで、イアソンが我が子を殺したメーデイアと対話するシーンでは、「普通の夫婦ゲンカみたい!」という意見が。確かに私達にとってもリアリティのある内容とテンポを持ち合わせています。

 このラストシーン、メーデイアが殺した自分の子供二人を抱えて竜が操る車に乗って現れ、イアソンを断罪して飛び去っていくというシーンですが、ここは研究者の間でも多様な議論が展開している場面で、それは「デウス・エクス・マーキナー」に関するものです。デウス・エクス・マーキナーとは、ギリシャ悲劇の特徴的な演出のひとつで、物語の最後に神様が突然舞台に現れ、それまで展開していた舞台上の出来事に収束を与えて劇に終わりをもたらすというもので、いってみれば水戸黄門の印籠のような役割を持っているものです。この作品ではデウス・エクス・マーキナーのような演出が用いられているのは確かなんですが、通常神様が果たす役割の位置に主人公であるメーデイアが当てられています。メーデイアは自分の子供を殺すとはいえ、着た人間が突然燃え出す着物に塗る毒薬を作れるとはいえ、一応人間ですので、この作品は現存するギリシャ悲劇に表れるデウス・エクス・マーキナーの中で、唯一人間が神様役をこなしている作品ということになります。

 このように特徴的な場面ではありますが、話題になったのはその具体的な演出方法について。このシーンはどのように上演されたのでしょうか。「デウス・エクス・マーキナー」とはラテン語で「機械仕掛けの神」という意味で(古代ギリシャ語で書かれたギリシャ悲劇なのになぜラテン語?それはこの言葉を発明したアリストテレスの書物が伝統的にラテン語訳で読まれてきたことが理由なようです)、それはこれが「機械的に」物語を終わらせる演出として機能していたと同時に、実際にクレーンのような「機械」を使って神様が空を飛んで登場するかのような演出が用いられていたらしいことに由来するとされています。今でいうと、ジャニーズのミュージカルとか、スーパー歌舞伎のような感じでしょうか。実際はそんな派手に飛び回ったかどうかは疑わしい上、クレーンが使われたというのも実は確かではないのですが、この場面のメーデイアの迫力を考えるとそれを際だたせるような演出が有効なことは間違いないでしょう。

1月23日(土)『メーデイア』

14時〜、たわまがが開催されました。
今回の戯曲は、

エウリピデース作『メーデイア』

です。

 今回から、たわまがは演劇の歴史をたどる旅に出るようです。初回は西洋演劇のスタート地点、ギリシャ悲劇と向き合います。ギリシャの三大悲劇詩人の一人とされるエウリピデースによる『メーデイア』は、今から約2500年前のギリシャ、アテネの演劇祭で上演された作品です。大学でギリシャ悲劇を勉強しているメンバーから簡単な構造や物語の背景などの説明があったあと、早速みんなで読み始めます。ギリシャ悲劇にはメインの役者の台詞の間に、コロスと呼ばれる合唱隊の歌と踊りの部分がはさまれていますが、この部分は今回、全員での群読という形で読みます。詳細な演出についてわからない部分が多いギリシャ悲劇のこと、実際の上演でももしかしたら似た演出が用いられていたかも知れません。

 実は「大学でギリシャ悲劇を勉強しているメンバー」とは今書いてる私のことで、たわまがでギリシャ悲劇を読むというのもかなり私のリクエスト的な側面もあったりします。あまり古典作品に触れたことがないメンバーが多い中で、どんな反応が得られるのかを楽しみにして参加していました。