2010年3月9日火曜日

3月7日『シャクンタラー姫』

今回は4世紀後半から5世紀前半に著されたという説が有力な、インド演劇、
カーリダーサ作『シャクンタラー姫』です。

これまでたわまがで扱ってきたのは主に、日本と西洋の演劇でした。
しかし世界各国に演劇はありまして、独自の発展を遂げてきたわけです。
その中でも特に演劇文化が発達した地域というと、
ヨーロッパ、中国、朝鮮、日本、そしてインドがあげられるようです。

インドは2世紀ごろにはすでに発達した演劇様式を持っていたと考えられ、
その流れをくむ作者であるカーリダーサによる『シャクンタラー姫』は、
インドの文学史上、随一の作品とされます。

作品を満たすオリエンタルな空気に、めくるめく幻想的な情景を想いながら、
今回の朗読は進みました。

それでは内容の検討に、と行きたいところですが、
筆者の個人的な都合(海外旅行に行ってきマース!)により、
更新はしばらくお待ち下さい。

いっぱいお芝居見てきますヨ!

2010年3月5日金曜日

『万人』検討ーその3ー

 今回は、読む前のイメージとのギャップが大きかったために、話が作品のエンターテインメント的側面に集まった印象でした。でも、それは仕方ないというか、500年前のヨーロッパの戯曲に対して、声を出して笑い共感することが出来た、そういうエモーショナルな反応をすることが出来たことへの感動が私達を包んでいました。

 古い作品を読むとき、作品を楽しむためには文学や歴史への教養といった予備知識が必要だと身構えがちですが、必ずしもそうではないのだということを今回感じました。もちろん、そういったものがあった方がより作品を多面的に読むことが出来ますし、作品を通じて歴史上の出来事に思いをはせるといった楽しみ方も出来ます。また、やはり翻訳に甘えた上でこのようにいっていることも、その意味を私達はもっと認識すべきでしょう。しかし、そうでなくとも我々の心に響いてくるような作品が、長い年月に耐え今に残っているのだと、改めて実感しました。

今回の朗読に使ったのは、
鳥居 忠信、磯野 守彦、山田 耕士訳『イギリス道徳劇集』、リーベル出版(1991)
より『万人』。

日本語で読める参考文献として、
グリン・ウィッカム著、山本浩訳『中世演劇の社会史』、筑摩書房(1990)

引用した原語(中期英語)は、
ここ(Corpus of Middle English Prose and Verse: http://quod.lib.umich.edu/c/cme/)に。
(なぜか手元にプリントしたバージニア大学のEText Centerのものはつながらなくなってしまったのですが。)

英語版wikipediaは、それ自体が充実しているとともに、現代英語訳や平易なガイダンスへのリンクがあります。

 次回は少しヨーロッパを離れシルクロードを東に、時代もまた1000年ほどさかのぼってインドの古典演劇に触れてみます。カレーが食べたくなってきました。

『万人』検討ーその2ー

 観客に劇の趣旨が告げられた後、まず舞台上には「神」が登場します。キリスト教の神様は誰か知っていますか?馬鹿にすんな、といわれそうですが、これはちょっとしたひっかけ問題でして、その回答がこれもわかりやすく劇中で与えられています。この神は"thy Maker"「おまえの(万人の)創造主」(86行)であると同時に「盗賊二人の間で磔になった」(31行)人物でもある、つまり父なる神(ヤハウェ)であると同時にその息子イエス・キリストでもあるとされています。これは父と子と聖霊が一体であるとする「三位一体」の考え方に依っています。言葉は知っていて、何となく意味も理解していたつもりでしたが、目の前の舞台上に現れてしまえばそれは説得力が違います。早速教会演劇に「布教」されている私達に気付きます。

 一方でこの劇の筋の要は、神様に提出する万人の決算書("rekenynge")をまとめ上げていくことにあります。この「決算書」といういかにも世俗的なものによって物語が組み立てられていくのは、一般大衆にもわかりやすく教義を伝えようという目的によるのでしょうか。また、様々な人や物や概念に遭遇したときの万人の反応もひとつひとつがとても親しみを感じさせるものです。たとえば「死」が万人の前に現れた時には、

O Deth, thou comest whan I had the leest in mynde!      (119)
うわっ、死か、おまえが来るなんて少しも思っていなかった。

などなど。このように死が突然訪れるというモティーフは、ペストの流行でまさに突然死がやってくる事態が身近であった中世の死生観を反映しているといえそうです。ちなみに、語頭を大文字にすると擬人化が完了するのは英語の強みですね。

 すでに見たキャラクターのおかしみについてもう少し具体的に見てみます。中世の観客が同じように笑いながら見ていたかというのは、専門家でも意見が割れているようですが、「友情」の軽薄っぷりやクライマックスに至る場面での「美」「力」「分別」の裏切りは少なくとも現在の価値観では微笑まずにどころか、声を出して笑わずには見ていられません。たわまがの参加者の間では中世の観客も笑ったのではないか、娯楽的な側面も含めて一般に受け入れられたのではないか、ということで一応意見が一致したのですがどうでしょうか。

『万人』検討ーその1ー

 まず本当に意外だったのは、とても面白かったこと、です。まず15世紀末という時代の古さに加え、中世演劇という歴史的な距離の隔たりもあります。その上、なじみの薄いキリスト教的な価値観が色濃く反映されているとなれば、手を出しにくいイメージも仕方無いかなという感じです。

 はたしてその実態はというと、子どもでもわかりやすいような話の筋と、万人をめぐる様々な事物を擬人化したこれまた単純でわかりやすいキャラクターによって、キリスト教の教養が無いからといって理解できないということは全くありませんでした。今の私達の価値観でも十分にわかる因果関係に基づいた筋が展開され、とても親しみを感じながら読み進めることが出来る一方で、私達とは少しずれた価値観が「そこでこうなるか!」という意外な展開を生み、かつそれがそれぞれのキャラクターにおかしみを与えて、劇の終盤では全員で思わず吹き出してしまうような場面も。「親類」や「いとこ」といった実際の人間から、「財産」「善行」「知識」などといった、物や観念の擬人化まで様々なキャラクターが登場するのですが、やはり少しずつ私達の価値観とは違ったイメージを持っていて、それが飽きさせない展開をもたらしています。

 ちなみにこれまでの記事では「登場人物」としていたところを「キャラクター」と書いているのですが、それはこの劇に登場するもの達が現在の(特に日本のポップカルチャーにおける)キャラクター文化に通じるな、と思ったからですが、ちゃんと論じるのは手に余るので感想のみです。蛇足。

 これが「普遍性」か、などと妙に感心しつつ、それだけではとりとめがないので、上演時の状況を振り返ってみますと、イギリスでヘンリー8世によって英国国教会が設けられたのが1534年で、この本が印刷された時期とほぼ一致します。また、ドイツでルターが「95ヶ条の論題」を提出したのが1517年であり、宗教改革のさなかの作品であることがわかります。このような時代背景を持ってカトリック教会から生まれてきたこの作品にもやはり、教会や司祭の権威をとても高く位置づけようとするといった、反宗教改革の影響を見ることが出来ます(700行〜750行あたり)。教会の権威が揺らぎつつあった時代に、一般庶民まで広くカトリックへの信仰を訴える必要があったのでしょうか。この作品が印刷物として現存最古の道徳劇である、という事実もそのあたりの事情を感じさせます。

 もう少し物語の筋に沿って見ていきましょう。

2010年3月4日木曜日

2月28日『万人』(”Everyman”)

今回のテーマは15世紀のイギリスで上演された「道徳劇」です。作者未詳。
"Everyman"(「万人」)という主人公が、
人生の終わりにこれまでの怠惰な暮らしを悔い改める物語。
今、私はすごく胸が痛いです。

宗教改革後のカトリック教会の要請で作られたという宗教色の強い作品で、
とっつきづらいのでは?と危惧していたのですがそんなことなし、
長さも手頃で、かつとてもわかりやすい。そして面白い。
意外な発見があった今回のたわまが。
それでは詳しく振り返ってみましょう。