2010年5月17日月曜日

文学フリマ

たわまがメンバーの関口文子と山田亮太が文学フリマで作品を発表します。


第十回文学フリマ

日時 5月23日(開場11:00〜終了16:00 )
場所 大田区産業プラザ
   (京浜急行本線 京急蒲田駅 徒歩 3分、
    JR京浜東北線 蒲田駅 徒歩13分)

ヴァーバル・アート・ユニットTOLTA(トルタ)
「ワンハンドレッドメートルトルタ」(文学フリマヴァージョン)


関口文子が戯曲を、山田亮太が詩を担当している、らしいです。
なにやら、8万行の「文学の切り売り」らしいです。
是非とも『100メートルトルタ』をひいて歩いていただきたい。」

、、、らしいです。

謎です。

トルタはこれまでも教科書を模した作品を発表するなど、
既存のメディアを自在に操って、
日本語、現代詩の可能性を切り開いてきた、気鋭のユニットです。
なにかやらかしてくれるに違いありません。


詳細は、
トルタウェブhttp://tolta.web.fc2.com/
トルタブログhttp://tolta.blog81.fc2.com/
文学フリマ公式サイトhttp://bunfree.net/
などでどうぞ。

4月11日『マクベス』

たわまが西洋演劇史シリーズ、クライマックス(まだまだ続くよ)は、
シェークスピア作『マクベス』です。

音読は、「サブカル化」した『マクベス』という感じである意味新解釈。
今回も非常に楽しかったのですが、残念なことに検討の時間がとれませんでした。
もう一度なんらかの機会を設けようと計画中です。

というわけで、更新をお楽しみに。

2010年4月11日日曜日

3月28日『夏の夜の夢』

たわまがの演劇の歴史をたどる旅は、ついに(ひとつの)山のてっぺんまでやってきました。
今回のテーマは、シェークスピア『夏の夜の夢』です。

そして、こちらへどうぞ!
https://sites.google.com/site/tawamaga/home/a_midsummer_nights_dream

今回はビジュアルなメディアで活動記録をお届けします。
一枚ずつの説明は随時アップしていきます!

2010年4月4日日曜日

『シャクンタラー姫』検討ーその3ー

・道化
・神様
・ギリシャの影響
  ・祝祭

 『シャクンタラー姫』にはヴィドゥーシャカという道化役が登場します。演劇に道化が登場するというのは珍しい事ではなくて、世界各地の演劇でその例が見られます。「なぜ世界各地の演劇に道化が登場するのか」ということについては、民俗学者の山口昌男が『道化の民俗学』で考察しています。その中で道化に共通する要素としてあげられている、権力を逆転させる性格として、ヴィドゥーシャカがバラモン階級にも関わらずサンスクリット語ではなく民衆の言葉を話し、また王と「友人」として時には王をからかうようなやりとりがあることなどが当てはまりそうです。

 『シャクンタラー姫』は4〜5世紀に書かれたと考えられていますが、それ以前にヨーロッパで発展していたギリシャ演劇の影響をめぐって議論があるようです。インドとヨーロッパでは場所が全然違うじゃないか、と一見考えてしまいますが、それなりに根拠があります。ひとつはアレキサンダー大王の遠征がインドまでやってきていたこと、それによって、アレキサンダー大王が引き返したあともそこに残った人々によって文化が伝えられただろうというものです。他にも間接的にせよ、いわゆるシルクロードを介して文化交流はあったと考えられるので、まったく伝わる可能性がなかったわけではないようです。

 しかし一方で、『シャクンタラー姫』はギリシャ演劇の単なる猿まねにとどまるような作品でないことはもちろん、かなり独自性のある(ヨーロッパ演劇とは異なる)発展の系譜を持っているように見えます。それは岩波文庫版の巻末に付されている『サンスクリット演劇入門』を読めばわかるとおり、インド独自のドラマツルギー論の発展の度合いを見ても明らかで、それは「アリストテレス的演劇」とは全く別のロジックで組み立てられています。もちろん、神話を題材とする点、韻文で書かれ、歌と踊りが挿入される点、王の英雄的な性格や、女性の描き方など、似ているといえば似ている点もありますが、それが「ヨーロッパ演劇との共通点」なのか、あるいは「演劇の共通点」なのかということになると意見が分かれる点も多そうです。

 実はこれには伏線がありまして、インドという国が長らく大英帝国の植民地化にあったということがこの議論に影響を与えているようなのです。文化的に共通点を持つことが植民地支配を正当化することにはならないとは思いますが、特殊な関係を持ったインドとヨーロッパという関係の中で、政治的理由からねじれた議論になっていることは、古代の作品について論じる時の弊害になります。

 『道化の民俗学』の中では、ギリシャ神話のヘルメスが同様に道化の性質を持つものと論じられていますが、例えば、同じようにこの本で取り上げられるコメディア・デラルテの道化役であるアルレッキーノに対して、ヘルメスとの様々な共通点をあげながらも、(インドよりずっと地理的文化的影響を証明し易いであろうにもかかわらず)ヘルメスとの直接的な影響や関係性については関知しません。この山口昌男的な民俗学のアプローチは上の議論を乗り越える可能性を持っていると思います。

 この辺で終わりです。次回はついにシェークスピア。これまでの経験をいかして立ち向かうことができるでしょうか。

『シャクンタラー姫』検討ーその2ー

・構造主義ー民俗学

 一転、なにやら難しそうな話ですが、、、実は今回のたわまがは、構造主義についての話から始まりました。きっかけは参加メンバーのひとりがこの本を読んだということからだったのですが、グッドタイミング。

 「構造主義」ってなんでしょう?構造主義全体の説明はここでは省略して(手に負えない!)、『シャクンタラー姫』との関わりの中で考えてみましょう。

 前項で書いてきたように、『シャクンタラー姫』は、私達にはない異国情緒あふれる独特な感覚に満ちていて、それを私は「オリエンタルな空気」と書いたりしました。しかしこの作品を作ったカーリダーサにしてみれば、当然のことながら異国情緒を描きたかったのではなく、自分の国に伝わる神話の、なじみ深い世界の中で展開されるエピソードを元に、「自分の世界の物語」として描いたはずです。それを読む私達がその作品の視点を省みず、「異国情緒」のわけのわからない美しさ、としてしか読まないとすれば、その読みは作品を理解する上で大きな欠点を抱えているということが出来るでしょう。
 
 この異国情緒の感覚については、以前、坂手洋二の『ワールド・トレード・センター』を読んだ際にも、そのときはパレスチナとイスラエルをめぐる議論で話題に上ったパレスチナ出身の文学者エドワード・サイードがその主著である『オリエンタリズム』の中で批判的分析を行っています。それによれば、西洋における「オリエンタリズム(東洋趣味)」は、西洋の主体構築の過程で必要であった「対象」として、西洋世界が彼らの「不気味なもの」といったような異質なイメージを東洋に押しつけた結果として生み出された「作られたイメージ」であるといいます。つまり、私達が『シャクンタラー姫』をより理解したいと思うとき、無批判に「マンゴーの蕾、なんて美しいんだ!!」のように「異質なイメージ」の観点から読むならば、そこにサイードのいうような差別的な視点、あるいは差別の「構造」があるのかどうか、検証が必要であるということになります。

 このように、自分自身や読む作品や作品に関わる人々(作者や登場人物など)がどんな「構造」をもって考えているのかを比較、分析することによって、私達は「マンゴーの蕾」が持つ意味をより広く理解することが出来るようになるでしょう。残念ながら、今回のたわまがではそれを詳細に検討するまでには至りませんでしたが、このように私達が作品を読む中で感動したり不快に思ったりする、その無意識の感覚にも、私達が生きてきた社会や環境の中で得てきた様々な「構造」があるということを、常に意識していきたいと思います。

『シャクンタラー姫』検討ーその1ー

・キャッ、キャッ!

 『シャクンタラー姫』の舞台は神話中のインドの宮廷やその周辺です。この舞台設定は、これまでたわまがで読んできた西洋や日本の演劇の、比較的私達にとってなじみのあるものとは大きく異なる情景を、我々に想像させてくれます。カースト制に基づく身分社会であるとか、作品を通じて描かれる場所が「暑そう」であるとか、なので蓮の葉で扇ぐとか、また、登場する植物や動物が、蓮やマンゴー、象など、南国情緒あふれるものであったりします。「マンゴーの蕾を折った」(6幕3節)ことがなにを意味するのか、そこにある香りや色はどんなものか、私には想像もつきませんが、それでも描き出される美しい魅力にとりつかれます。

 一方で、物語の基本的な筋や、多くのシーンにおける登場人物の心情の推移は、私達の感覚でも十分に理解できます。物語の主題がシャクンタラーと王であるドゥフシャンタの恋なので、人類普遍の(?)恋模様が、時には微笑ましく描かれます。うら若き乙女達が「キャッ、キャッ!」と恋と戯れる、そんなシーンをみていきましょう。

 3幕冒頭、1幕でお互い一目惚れした二人が再び出会います。シャクンタラーの友人であるアヌスーヤーとプリヤンヴァダーはその場に二人とともにいたのですが、恋人を二人きりにしようとこんなことを言います。


「プリヤンヴァダーさま、あそこに、苦行の衆の鹿の仔が、あちこちと目を動かせて、はぐれた母親を探しておりまする。それゆえ、わらわはこれから、仔鹿を母親のもとへ、連れていってやりましょう。」


それに対して、プリヤンヴァダーは、


「アヌスーヤーさま、あの仔鹿は、なかなかじっとしておりませぬ。あなたさまお独りでは抑えきれますまい。それゆえわらわも、お手伝いいたしましょう。」


といって、二人はその場を離れようとします。シャクンタラーはそれを引き留めて、


「お二人とも、ここからよそに、おいでなされては、いやでございます、わらわが独りぼっちになりますほどに。」


といいますが、友人二人は「笑みを浮べて」、


「あなたさまが独りぼっちとは、聞えませぬ、地界を守る王様が、おそばにおいで遊ばしますのに。」


と答えて、立ち去ってしまいます。こうして若い恋人は無事二人きりになることが出来たのでした。思わずニヤニヤしてしまうようなシーンです。きっと仔鹿なんていなかった、もしくはいたとしても、のどかに草をはんでいて、困った様子や暴れる様子など全くなかったに違いありません。

 真面目に書くのも気恥ずかしい、こんなシーンや台詞が作品全体を華やかに彩ります。

『シャクンタラー姫』検討、の前に

 ただいま帰りました。というと嘘になりますが、筆者はパリとロンドンに2週間ほど旅行してきました。その間、パリで3本、ロンドンで4本お芝居を観まして、いやあ、素晴らしい旅行でした!ギリシャ悲劇(『メーデイア』、フランス語で"Médée"を観ました)、シェークスピア(『マクベス』と、フランスで観た『ロミオとジュリエット』はミュージカルアレンジでした)、オペラ(あのオペラ座で)、バレエ、ミュージカルと、様々な時代、ジャンルの演劇に触れ、とても刺激的な経験でした。
 

 さて、『シャクンタラー姫』を思い出さなければいけません。といっても上記の旅行と帰ってきてからの忙しさのせいで記憶はかすかにも残っていないので、手元のノートの記録を見ると、、、


・キャッ、キャッ!

・構造主義ー民俗学

・道化

・神様

・ギリシャの影響
  ・祝祭

・「演劇」

・アイデンティティ


とあります。さあ、何のことだったでしょうか。ひとつずつ記憶をたどっていきたいと思います。