さてと、、、(あれ、いつの間にかその2になってる?)
関口文子の戯曲の魅力は多層性と多義性にあると思います。一人の人間が書いたとは思えないような拡散した劇構造と、さりげない日常にみせかけた隠喩と寓意の世界。ところが、その「喩」は、ひとつの出来事やセリフや行為がひとつに意味付けられるのではなく(これってとってもリアル)、しかし意味が放棄される(「観客に投げかける」)こともなく、登場人物と我々の間に幾重にも意味が重なっています。
どういうイメージかというと、、、
薔薇の内部
何処にこの内部に対する
外部があるのだろう?どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖に映っているのは
どの空なのだろう?見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部は ますますみちみちて圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが一つの部屋に
夢のなかのひとつの部屋になるのだ
(リルケ詩集より、富士川英郎訳)※ググって一番上のブログから
先週授業で読んだってだけなんですが、この感覚だ!と思ったので。
バラの花びらが何枚も何枚も重なり合って、その「内部」を探そうと思っても、そこを内部にしている(包んでいる)花びらは別の花びらに包まれていて、その花びらもまた別の、、、とやっているうちに、「世界はバラの『内部』であった!」と。
関口文子のバラの花は、観客、読者である我々を包む、新鮮なやり方を見せてくれています。
今回の作品も、それがよく(若干わかりやすすぎる形で)表れているのではないでしょうか。
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