2010年5月17日月曜日

文学フリマ

たわまがメンバーの関口文子と山田亮太が文学フリマで作品を発表します。


第十回文学フリマ

日時 5月23日(開場11:00〜終了16:00 )
場所 大田区産業プラザ
   (京浜急行本線 京急蒲田駅 徒歩 3分、
    JR京浜東北線 蒲田駅 徒歩13分)

ヴァーバル・アート・ユニットTOLTA(トルタ)
「ワンハンドレッドメートルトルタ」(文学フリマヴァージョン)


関口文子が戯曲を、山田亮太が詩を担当している、らしいです。
なにやら、8万行の「文学の切り売り」らしいです。
是非とも『100メートルトルタ』をひいて歩いていただきたい。」

、、、らしいです。

謎です。

トルタはこれまでも教科書を模した作品を発表するなど、
既存のメディアを自在に操って、
日本語、現代詩の可能性を切り開いてきた、気鋭のユニットです。
なにかやらかしてくれるに違いありません。


詳細は、
トルタウェブhttp://tolta.web.fc2.com/
トルタブログhttp://tolta.blog81.fc2.com/
文学フリマ公式サイトhttp://bunfree.net/
などでどうぞ。

4月11日『マクベス』

たわまが西洋演劇史シリーズ、クライマックス(まだまだ続くよ)は、
シェークスピア作『マクベス』です。

音読は、「サブカル化」した『マクベス』という感じである意味新解釈。
今回も非常に楽しかったのですが、残念なことに検討の時間がとれませんでした。
もう一度なんらかの機会を設けようと計画中です。

というわけで、更新をお楽しみに。

2010年4月11日日曜日

3月28日『夏の夜の夢』

たわまがの演劇の歴史をたどる旅は、ついに(ひとつの)山のてっぺんまでやってきました。
今回のテーマは、シェークスピア『夏の夜の夢』です。

そして、こちらへどうぞ!
https://sites.google.com/site/tawamaga/home/a_midsummer_nights_dream

今回はビジュアルなメディアで活動記録をお届けします。
一枚ずつの説明は随時アップしていきます!

2010年4月4日日曜日

『シャクンタラー姫』検討ーその3ー

・道化
・神様
・ギリシャの影響
  ・祝祭

 『シャクンタラー姫』にはヴィドゥーシャカという道化役が登場します。演劇に道化が登場するというのは珍しい事ではなくて、世界各地の演劇でその例が見られます。「なぜ世界各地の演劇に道化が登場するのか」ということについては、民俗学者の山口昌男が『道化の民俗学』で考察しています。その中で道化に共通する要素としてあげられている、権力を逆転させる性格として、ヴィドゥーシャカがバラモン階級にも関わらずサンスクリット語ではなく民衆の言葉を話し、また王と「友人」として時には王をからかうようなやりとりがあることなどが当てはまりそうです。

 『シャクンタラー姫』は4〜5世紀に書かれたと考えられていますが、それ以前にヨーロッパで発展していたギリシャ演劇の影響をめぐって議論があるようです。インドとヨーロッパでは場所が全然違うじゃないか、と一見考えてしまいますが、それなりに根拠があります。ひとつはアレキサンダー大王の遠征がインドまでやってきていたこと、それによって、アレキサンダー大王が引き返したあともそこに残った人々によって文化が伝えられただろうというものです。他にも間接的にせよ、いわゆるシルクロードを介して文化交流はあったと考えられるので、まったく伝わる可能性がなかったわけではないようです。

 しかし一方で、『シャクンタラー姫』はギリシャ演劇の単なる猿まねにとどまるような作品でないことはもちろん、かなり独自性のある(ヨーロッパ演劇とは異なる)発展の系譜を持っているように見えます。それは岩波文庫版の巻末に付されている『サンスクリット演劇入門』を読めばわかるとおり、インド独自のドラマツルギー論の発展の度合いを見ても明らかで、それは「アリストテレス的演劇」とは全く別のロジックで組み立てられています。もちろん、神話を題材とする点、韻文で書かれ、歌と踊りが挿入される点、王の英雄的な性格や、女性の描き方など、似ているといえば似ている点もありますが、それが「ヨーロッパ演劇との共通点」なのか、あるいは「演劇の共通点」なのかということになると意見が分かれる点も多そうです。

 実はこれには伏線がありまして、インドという国が長らく大英帝国の植民地化にあったということがこの議論に影響を与えているようなのです。文化的に共通点を持つことが植民地支配を正当化することにはならないとは思いますが、特殊な関係を持ったインドとヨーロッパという関係の中で、政治的理由からねじれた議論になっていることは、古代の作品について論じる時の弊害になります。

 『道化の民俗学』の中では、ギリシャ神話のヘルメスが同様に道化の性質を持つものと論じられていますが、例えば、同じようにこの本で取り上げられるコメディア・デラルテの道化役であるアルレッキーノに対して、ヘルメスとの様々な共通点をあげながらも、(インドよりずっと地理的文化的影響を証明し易いであろうにもかかわらず)ヘルメスとの直接的な影響や関係性については関知しません。この山口昌男的な民俗学のアプローチは上の議論を乗り越える可能性を持っていると思います。

 この辺で終わりです。次回はついにシェークスピア。これまでの経験をいかして立ち向かうことができるでしょうか。

『シャクンタラー姫』検討ーその2ー

・構造主義ー民俗学

 一転、なにやら難しそうな話ですが、、、実は今回のたわまがは、構造主義についての話から始まりました。きっかけは参加メンバーのひとりがこの本を読んだということからだったのですが、グッドタイミング。

 「構造主義」ってなんでしょう?構造主義全体の説明はここでは省略して(手に負えない!)、『シャクンタラー姫』との関わりの中で考えてみましょう。

 前項で書いてきたように、『シャクンタラー姫』は、私達にはない異国情緒あふれる独特な感覚に満ちていて、それを私は「オリエンタルな空気」と書いたりしました。しかしこの作品を作ったカーリダーサにしてみれば、当然のことながら異国情緒を描きたかったのではなく、自分の国に伝わる神話の、なじみ深い世界の中で展開されるエピソードを元に、「自分の世界の物語」として描いたはずです。それを読む私達がその作品の視点を省みず、「異国情緒」のわけのわからない美しさ、としてしか読まないとすれば、その読みは作品を理解する上で大きな欠点を抱えているということが出来るでしょう。
 
 この異国情緒の感覚については、以前、坂手洋二の『ワールド・トレード・センター』を読んだ際にも、そのときはパレスチナとイスラエルをめぐる議論で話題に上ったパレスチナ出身の文学者エドワード・サイードがその主著である『オリエンタリズム』の中で批判的分析を行っています。それによれば、西洋における「オリエンタリズム(東洋趣味)」は、西洋の主体構築の過程で必要であった「対象」として、西洋世界が彼らの「不気味なもの」といったような異質なイメージを東洋に押しつけた結果として生み出された「作られたイメージ」であるといいます。つまり、私達が『シャクンタラー姫』をより理解したいと思うとき、無批判に「マンゴーの蕾、なんて美しいんだ!!」のように「異質なイメージ」の観点から読むならば、そこにサイードのいうような差別的な視点、あるいは差別の「構造」があるのかどうか、検証が必要であるということになります。

 このように、自分自身や読む作品や作品に関わる人々(作者や登場人物など)がどんな「構造」をもって考えているのかを比較、分析することによって、私達は「マンゴーの蕾」が持つ意味をより広く理解することが出来るようになるでしょう。残念ながら、今回のたわまがではそれを詳細に検討するまでには至りませんでしたが、このように私達が作品を読む中で感動したり不快に思ったりする、その無意識の感覚にも、私達が生きてきた社会や環境の中で得てきた様々な「構造」があるということを、常に意識していきたいと思います。

『シャクンタラー姫』検討ーその1ー

・キャッ、キャッ!

 『シャクンタラー姫』の舞台は神話中のインドの宮廷やその周辺です。この舞台設定は、これまでたわまがで読んできた西洋や日本の演劇の、比較的私達にとってなじみのあるものとは大きく異なる情景を、我々に想像させてくれます。カースト制に基づく身分社会であるとか、作品を通じて描かれる場所が「暑そう」であるとか、なので蓮の葉で扇ぐとか、また、登場する植物や動物が、蓮やマンゴー、象など、南国情緒あふれるものであったりします。「マンゴーの蕾を折った」(6幕3節)ことがなにを意味するのか、そこにある香りや色はどんなものか、私には想像もつきませんが、それでも描き出される美しい魅力にとりつかれます。

 一方で、物語の基本的な筋や、多くのシーンにおける登場人物の心情の推移は、私達の感覚でも十分に理解できます。物語の主題がシャクンタラーと王であるドゥフシャンタの恋なので、人類普遍の(?)恋模様が、時には微笑ましく描かれます。うら若き乙女達が「キャッ、キャッ!」と恋と戯れる、そんなシーンをみていきましょう。

 3幕冒頭、1幕でお互い一目惚れした二人が再び出会います。シャクンタラーの友人であるアヌスーヤーとプリヤンヴァダーはその場に二人とともにいたのですが、恋人を二人きりにしようとこんなことを言います。


「プリヤンヴァダーさま、あそこに、苦行の衆の鹿の仔が、あちこちと目を動かせて、はぐれた母親を探しておりまする。それゆえ、わらわはこれから、仔鹿を母親のもとへ、連れていってやりましょう。」


それに対して、プリヤンヴァダーは、


「アヌスーヤーさま、あの仔鹿は、なかなかじっとしておりませぬ。あなたさまお独りでは抑えきれますまい。それゆえわらわも、お手伝いいたしましょう。」


といって、二人はその場を離れようとします。シャクンタラーはそれを引き留めて、


「お二人とも、ここからよそに、おいでなされては、いやでございます、わらわが独りぼっちになりますほどに。」


といいますが、友人二人は「笑みを浮べて」、


「あなたさまが独りぼっちとは、聞えませぬ、地界を守る王様が、おそばにおいで遊ばしますのに。」


と答えて、立ち去ってしまいます。こうして若い恋人は無事二人きりになることが出来たのでした。思わずニヤニヤしてしまうようなシーンです。きっと仔鹿なんていなかった、もしくはいたとしても、のどかに草をはんでいて、困った様子や暴れる様子など全くなかったに違いありません。

 真面目に書くのも気恥ずかしい、こんなシーンや台詞が作品全体を華やかに彩ります。

『シャクンタラー姫』検討、の前に

 ただいま帰りました。というと嘘になりますが、筆者はパリとロンドンに2週間ほど旅行してきました。その間、パリで3本、ロンドンで4本お芝居を観まして、いやあ、素晴らしい旅行でした!ギリシャ悲劇(『メーデイア』、フランス語で"Médée"を観ました)、シェークスピア(『マクベス』と、フランスで観た『ロミオとジュリエット』はミュージカルアレンジでした)、オペラ(あのオペラ座で)、バレエ、ミュージカルと、様々な時代、ジャンルの演劇に触れ、とても刺激的な経験でした。
 

 さて、『シャクンタラー姫』を思い出さなければいけません。といっても上記の旅行と帰ってきてからの忙しさのせいで記憶はかすかにも残っていないので、手元のノートの記録を見ると、、、


・キャッ、キャッ!

・構造主義ー民俗学

・道化

・神様

・ギリシャの影響
  ・祝祭

・「演劇」

・アイデンティティ


とあります。さあ、何のことだったでしょうか。ひとつずつ記憶をたどっていきたいと思います。

2010年3月9日火曜日

3月7日『シャクンタラー姫』

今回は4世紀後半から5世紀前半に著されたという説が有力な、インド演劇、
カーリダーサ作『シャクンタラー姫』です。

これまでたわまがで扱ってきたのは主に、日本と西洋の演劇でした。
しかし世界各国に演劇はありまして、独自の発展を遂げてきたわけです。
その中でも特に演劇文化が発達した地域というと、
ヨーロッパ、中国、朝鮮、日本、そしてインドがあげられるようです。

インドは2世紀ごろにはすでに発達した演劇様式を持っていたと考えられ、
その流れをくむ作者であるカーリダーサによる『シャクンタラー姫』は、
インドの文学史上、随一の作品とされます。

作品を満たすオリエンタルな空気に、めくるめく幻想的な情景を想いながら、
今回の朗読は進みました。

それでは内容の検討に、と行きたいところですが、
筆者の個人的な都合(海外旅行に行ってきマース!)により、
更新はしばらくお待ち下さい。

いっぱいお芝居見てきますヨ!

2010年3月5日金曜日

『万人』検討ーその3ー

 今回は、読む前のイメージとのギャップが大きかったために、話が作品のエンターテインメント的側面に集まった印象でした。でも、それは仕方ないというか、500年前のヨーロッパの戯曲に対して、声を出して笑い共感することが出来た、そういうエモーショナルな反応をすることが出来たことへの感動が私達を包んでいました。

 古い作品を読むとき、作品を楽しむためには文学や歴史への教養といった予備知識が必要だと身構えがちですが、必ずしもそうではないのだということを今回感じました。もちろん、そういったものがあった方がより作品を多面的に読むことが出来ますし、作品を通じて歴史上の出来事に思いをはせるといった楽しみ方も出来ます。また、やはり翻訳に甘えた上でこのようにいっていることも、その意味を私達はもっと認識すべきでしょう。しかし、そうでなくとも我々の心に響いてくるような作品が、長い年月に耐え今に残っているのだと、改めて実感しました。

今回の朗読に使ったのは、
鳥居 忠信、磯野 守彦、山田 耕士訳『イギリス道徳劇集』、リーベル出版(1991)
より『万人』。

日本語で読める参考文献として、
グリン・ウィッカム著、山本浩訳『中世演劇の社会史』、筑摩書房(1990)

引用した原語(中期英語)は、
ここ(Corpus of Middle English Prose and Verse: http://quod.lib.umich.edu/c/cme/)に。
(なぜか手元にプリントしたバージニア大学のEText Centerのものはつながらなくなってしまったのですが。)

英語版wikipediaは、それ自体が充実しているとともに、現代英語訳や平易なガイダンスへのリンクがあります。

 次回は少しヨーロッパを離れシルクロードを東に、時代もまた1000年ほどさかのぼってインドの古典演劇に触れてみます。カレーが食べたくなってきました。

『万人』検討ーその2ー

 観客に劇の趣旨が告げられた後、まず舞台上には「神」が登場します。キリスト教の神様は誰か知っていますか?馬鹿にすんな、といわれそうですが、これはちょっとしたひっかけ問題でして、その回答がこれもわかりやすく劇中で与えられています。この神は"thy Maker"「おまえの(万人の)創造主」(86行)であると同時に「盗賊二人の間で磔になった」(31行)人物でもある、つまり父なる神(ヤハウェ)であると同時にその息子イエス・キリストでもあるとされています。これは父と子と聖霊が一体であるとする「三位一体」の考え方に依っています。言葉は知っていて、何となく意味も理解していたつもりでしたが、目の前の舞台上に現れてしまえばそれは説得力が違います。早速教会演劇に「布教」されている私達に気付きます。

 一方でこの劇の筋の要は、神様に提出する万人の決算書("rekenynge")をまとめ上げていくことにあります。この「決算書」といういかにも世俗的なものによって物語が組み立てられていくのは、一般大衆にもわかりやすく教義を伝えようという目的によるのでしょうか。また、様々な人や物や概念に遭遇したときの万人の反応もひとつひとつがとても親しみを感じさせるものです。たとえば「死」が万人の前に現れた時には、

O Deth, thou comest whan I had the leest in mynde!      (119)
うわっ、死か、おまえが来るなんて少しも思っていなかった。

などなど。このように死が突然訪れるというモティーフは、ペストの流行でまさに突然死がやってくる事態が身近であった中世の死生観を反映しているといえそうです。ちなみに、語頭を大文字にすると擬人化が完了するのは英語の強みですね。

 すでに見たキャラクターのおかしみについてもう少し具体的に見てみます。中世の観客が同じように笑いながら見ていたかというのは、専門家でも意見が割れているようですが、「友情」の軽薄っぷりやクライマックスに至る場面での「美」「力」「分別」の裏切りは少なくとも現在の価値観では微笑まずにどころか、声を出して笑わずには見ていられません。たわまがの参加者の間では中世の観客も笑ったのではないか、娯楽的な側面も含めて一般に受け入れられたのではないか、ということで一応意見が一致したのですがどうでしょうか。

『万人』検討ーその1ー

 まず本当に意外だったのは、とても面白かったこと、です。まず15世紀末という時代の古さに加え、中世演劇という歴史的な距離の隔たりもあります。その上、なじみの薄いキリスト教的な価値観が色濃く反映されているとなれば、手を出しにくいイメージも仕方無いかなという感じです。

 はたしてその実態はというと、子どもでもわかりやすいような話の筋と、万人をめぐる様々な事物を擬人化したこれまた単純でわかりやすいキャラクターによって、キリスト教の教養が無いからといって理解できないということは全くありませんでした。今の私達の価値観でも十分にわかる因果関係に基づいた筋が展開され、とても親しみを感じながら読み進めることが出来る一方で、私達とは少しずれた価値観が「そこでこうなるか!」という意外な展開を生み、かつそれがそれぞれのキャラクターにおかしみを与えて、劇の終盤では全員で思わず吹き出してしまうような場面も。「親類」や「いとこ」といった実際の人間から、「財産」「善行」「知識」などといった、物や観念の擬人化まで様々なキャラクターが登場するのですが、やはり少しずつ私達の価値観とは違ったイメージを持っていて、それが飽きさせない展開をもたらしています。

 ちなみにこれまでの記事では「登場人物」としていたところを「キャラクター」と書いているのですが、それはこの劇に登場するもの達が現在の(特に日本のポップカルチャーにおける)キャラクター文化に通じるな、と思ったからですが、ちゃんと論じるのは手に余るので感想のみです。蛇足。

 これが「普遍性」か、などと妙に感心しつつ、それだけではとりとめがないので、上演時の状況を振り返ってみますと、イギリスでヘンリー8世によって英国国教会が設けられたのが1534年で、この本が印刷された時期とほぼ一致します。また、ドイツでルターが「95ヶ条の論題」を提出したのが1517年であり、宗教改革のさなかの作品であることがわかります。このような時代背景を持ってカトリック教会から生まれてきたこの作品にもやはり、教会や司祭の権威をとても高く位置づけようとするといった、反宗教改革の影響を見ることが出来ます(700行〜750行あたり)。教会の権威が揺らぎつつあった時代に、一般庶民まで広くカトリックへの信仰を訴える必要があったのでしょうか。この作品が印刷物として現存最古の道徳劇である、という事実もそのあたりの事情を感じさせます。

 もう少し物語の筋に沿って見ていきましょう。

2010年3月4日木曜日

2月28日『万人』(”Everyman”)

今回のテーマは15世紀のイギリスで上演された「道徳劇」です。作者未詳。
"Everyman"(「万人」)という主人公が、
人生の終わりにこれまでの怠惰な暮らしを悔い改める物語。
今、私はすごく胸が痛いです。

宗教改革後のカトリック教会の要請で作られたという宗教色の強い作品で、
とっつきづらいのでは?と危惧していたのですがそんなことなし、
長さも手頃で、かつとてもわかりやすい。そして面白い。
意外な発見があった今回のたわまが。
それでは詳しく振り返ってみましょう。

2010年2月27日土曜日

『人間ぎらい』その後

 記事を書きながら調べていたら気付いたことがあったので、補記。

 『人間ぎらい』はアレクサンドランという韻律に従って書かれた韻文劇だったという。知らなかった。。。アレクサンドランは弱強格六脚を一行とする韻律です。当時広くつかわれていた韻律のようです。モリエールの作品には韻文劇と散文劇の両方があるらしいです、興味深い。

 弱強格六脚というのは、音節ごとのアクセント(アクサンというべきかしら)をおく順番が、「弱く読む音節ー強く読む音節」の順番で六回繰り返されるもので、たとえば一幕一場の冒頭は、


PHILINTE
Qu'est-ce donc? qu'âvez-vous?
  弱  強 弱  強 弱 強

ALCESTE, assis.
                Laissez-moi, je vous prie.
                 弱 強 弱 強 弱  強

フィラント
  どうしたの?元気?

アルセスト(座っている)
  頼むから、放っておいてよ。


となって、1行の台詞を二人で分け合っている事になります。翻訳はスーパーいい加減です。私はフランス語はかじるほどもわからないので。二人で分け合ってるなら三脚が二行なんじゃないのといわれると、それは決まり事なので、としかいえないのですが、どれだけかっちりした決まり事なのかは以下をご参照ください。

Googleブックス: Le misanthrope: comédie


 弱強格はイアムボス(アイアンビック)という古代からある韻律で、ヨーロッパの言葉の通常の発音に近いとされています。韻文による劇ではありますが、当時の人は十分に親しみを持ってこの劇を見たことが想像できます。

 もういっこだけ。たわまがの時に話題になった場分けの問題について。登場人物が出入りするたびに、基本的には「場scene」が分けられるのですが、上の本の体裁を見ていると、なんとなくですが、場分けは本にするときのデザインの問題だったんじゃないかという気がします。

 それにしてもグーグルブックスは素晴らしい。ホントにこのままだと『日本語が亡びるとき』(水村美苗著)です。著者、出版社、大学、などなど日本語の人たちもがんばるべき。

2010年2月25日木曜日

『人間ぎらい』検討ーその2ー

 このように、「当時の現代」の貴族の姿をシニカルでありながらもリアルに描いたところにモリエールのおもしろさがありそうです。社会風刺は喜劇の常套手段ですが、『人間ぎらい』のそれはかなり辛辣です。アルセストは自分の潔癖な性格とセリメーヌへの恋心の間にはさまれて破滅していくかのようです。途中の滑稽な台詞回しが無ければ悲劇にもなるような、トラジコメディー的な要素を持っています。しかし全体としてはこの作品はやはりまぎれもない喜劇となっているでしょう。セリメーヌの「割り切った性格」や男達の間抜けぶりが喜劇的であるのはもちろんですが、物語の筋においてこの作品が喜劇であることに重要な役割を果たしているのは、アルセストの友人である好青年フィラントです。彼がアルセストが困難な状況に陥るたびに、「正論のアドバイス」を差し伸べます。結局いつもアルセストは彼の助言に反して自分をさらなる困難に陥らせる方を選んでしまうのですが、このフィラントの助言があることによって、必然的に破滅への道を選ばざるを得ないような「悲劇的な」状況と異なり、アルセストは常に正しい方向を選ぶ可能性を示されながら、自ら進んで困難に足をつっこんでいくように描かれているのです。観ている人間としては「こりゃ自業自得だ。」と思ったことでしょう。このフィラントの役割について漫才のツッコミのようだというのは言い得て妙で、なんとなく納得してしまいます。アルセストは「なんでやねん」「どないやねん」とフィラントにつっこまれながら、それでもボケ倒していきます。

 この作品に結末らしい結末は用意されていません。これまで見てきたとおり主人公が改心するわけでもなければ、劇的なラストシーンがあるわけでもありません。これもまるで漫才のようです。

アルセスト「もう俺は田舎にひっこんでやる!」
フィラント「もうええわ。」
二人   「どうもありがとうございました。」

17世紀フランスの貴族文化と21世紀日本の大衆文化が呼応するのは単純に楽しい発見です。いつの時代も笑いのツボは変わらないのですね。

 最後に、この時代とその前後の演劇をめぐる状況についての話題になりました。モリエールと同時代の劇作家としてはコルネイユとラシーヌをあげることが出来ます。二人とも悲劇作家ではありますがほぼ同時代を生きた人物です。この時代はフランスブルボン朝の絶頂期に当たります。貴族が最も豊かだった時代にフランス演劇の三大巨頭が現れたことは偶然ではありません。しかし、ありのままの人間を描くというモリエールの態度には、その後の啓蒙主義の時代を予感させるものがあるように思われますが、どうでしょう?

 演劇の歴史を追う時、中世ヨーロッパの「層の薄さ」は思わず「暗黒時代」という言葉を使いたくなるほどのものです。ましてテキストとして今日まで伝わっているものとなれば、いわんやなんとかをや、です。しかし、教会という文字通り聖域の中で大切に守られていた演劇がありました。次回のテーマはイギリス道徳劇。ハードルの高さを恐れないところがたわまがの強みです。

2010年2月24日水曜日

『人間ぎらい』検討ーその1ー

 話のテーマは他愛のない男女のいざこざで、デフォルメされた登場人物それぞれのキャラクターがおもしろおかしく描かれます。くだらないといってしまえばそれまでですが、いつの時代もこういう種類の話題が興味の的になるのだなあと、恋愛というテーマの普遍性を感じます。

 現代の私達が読んでも笑える台詞ややりとりもしばしば出てきます。ただ、私達が笑っているところを昔のフランス人も同様に笑っていたかは未知数で、その逆で昔のフランス人が大爆笑していたところを私達が素通りしていることも考えられます。そんなことを感じるのが登場人物達が自作の詩を批評しあう場面。物語の中ではこの詩の評価をめぐって裁判沙汰になるという何ともめちゃくちゃな展開を見せるのですが、主人公アルセストがこき下ろすオロントの自作の詩の「ひどさ」がいまいちピンとこないんですね。あるいはそんなにひどくもない詩に対してひどいことをいうことで、アルセストのひねくれた性格が強調されているのかも。詩の翻訳ほど難しいものもないかと思いますが、原文にあたる語学力がない者にとってはつらいところです。

 現代とのドラマツルギー感覚の違いはやはり話題になります。主人公の描かれ方が今の感覚と違うという指摘は興味深いですね。つまり、最近の物語だと主人公の成長とか心境の変化とかが物語の軸になることが多い一方で、『人間ぎらい』のアルセストは最初から最後まで頑固一徹、最後は田舎に引きこもると唐突に宣言して幕となります。この主人公の変化のなさが物語になるというのが今の感覚とずれているという意見が出て、さらにそれについて、コメディア・デラルテなど中世演劇のストックキャラクターの伝統の影響を指摘する意見が出ました。観点はかなり独創的ですが、当時のフランス宮廷でコメディア・デラルテが人気を博していた事などを鑑みれば、かなり的を射た意見といえるかも知れません。他にも時代的にはシェイクスピアとの関係も気になるところですが、もう少し知識が必要になるので今後の課題ですね。

 モリエールの喜劇について、彼の演劇史における功績はなにかという話。「ありのままの人間」を描いて見せたところに彼の新しさがあったのだという事について、『人間ぎらい』ではどのように人間が描かれているかというと、それはもう皮肉たっぷりに貴族社会が描かれています。誰にでも愛想を振りまく一方、当人のいないところでは陰口をたたきまくるセリメーヌのキャラクターはもちろん、彼女を取り巻く男性達はみんな戯画化されて「貴族によくあるタイプ」の人間を描き出しています。このようなシニカルな視点を作家が持っていたこと、そしてそれが当時の宮廷で人気を博したこと(太陽王ルイ14世の前で上演されたのです。)は面白い事実です。当時の貴族も豪華なドレスに仮面舞踏会、天蓋付きベッドで「パンがなければケーキを食べればいいじゃない!」みたいな生活をしながらも、「このままじゃいけないわ」と思っていた人も結構いたらしいということでしょうか。

2010年2月23日火曜日

2月14日(日)『人間ぎらい』

今回は、
モリエール作 内藤濯訳 『人間ぎらい』
です。
訳者は「ないとう・あろう」氏。『星の王子さま』の翻訳で有名です。

バレンタインデーですね。
行き帰りの電車の中でカップルを多く見かけるような気がするのが、
本当なのか、気のせいなのか、
もらえない人も、わたす人がいない人も「人間ぎらい」になりがちな、この季節、
いつもより張り切っていきましょう!!

 今回は私は音読には参加できなかったのですが、実際に読んだ参加者からは「意外に長かった。」という声。薄いとはいえ文庫本一冊分なのでそれなりに分量があります。加えて前回のギリシャ悲劇の時と同様、ひとつひとつの台詞が長いことが「体感分量」にも影響していそうです。

 もうひとつ、今回は参加者の平均年齢が若々しい。この勢いでたわまがを広げていきたいですね。

 では早速、内容を見ていきましょう。

2010年2月8日月曜日

『メーデイア』検討ーその2ー

 ここまで読んでいただいた方はもう感じているかも知れませんが、紀元前431年に上演されたこの作品の初演時の演出については、様々な研究が行われているにもかかわらず、ほとんどわかっていないといっていい状況であるようです。それは、台詞の読み方ひとつとってもそうで、ギリシャ悲劇は全文が韻文で書かれていて、合唱隊の歌の部分とメインの役者の台詞の部分では違う韻律が使い分けられていたりするのですが、合唱隊の歌のメロディーもわからなければ、役者がどのように台詞をしゃべっていたのかもわかりません。オペラにはアリアとレチタティーヴォがあり、歌舞伎は散文の台詞の部分と七五調の台詞の部分があったりしますが、オペラのように全編にわたって「音楽的」だったのか、歌舞伎のようにわりと「散文的」にしゃべっていたのか、もしくはその中間か、現時点では想像するしかありません。2500年前の上演を録画したDVDでも発掘されるといいのですが。

 読み方という点でもう一つ。みんなで朗読をした後、事前にストーリーの背景や大まかなあらすじについての解説をしたのが、とても助かったという声がみんなから上がりました。確かに私達にとってはなじみの薄いギリシャ神話の1エピソードを題材にした作品で、上演当時の観客はこの「元ネタ」についてよく知っていたと思われるので、予備知識が必要な部分はあるかも知れませんが、ここであがった反応は、単純に「読みにくい。」とか「話が入ってこない。」というものではないかと思いました。そしてその原因は翻訳にあるのではないかと私は疑います。元々、古代ギリシャ語を日本語に訳せる人間はそうはいないので、ほとんどの場合学者が翻訳することになります。そうするとどうしても日本語戯曲としての読みやすさや自然さよりも、原文との対応や文法の厳密さが優先されがちです。そうするとやはり日本語のみを読むことになる多くの読者は読みづらさを感じてしまいます。これには、「ギリシャ悲劇の格調高さを表したのであって、いたずらに口語体で訳せばいいというものではないのだ」という反論がありそうです。

 この点について、これからおそらく数作品の古い海外の戯曲をたわまがで読むことになるので、注目してみたいと思っています。シェークスピアの小田島雄志訳とか、「反例」もいくつか思い当たります。あるいは次回はモリエールの喜劇だそうで、喜劇だったらなおさら、今の人にそのイメージを伝えるのためには、カジュアルな翻訳が求められるのではないかと思いますが、、、といったところで次回もまた楽しみです。

2010年2月7日日曜日

『メーデイア』検討

 まず読んですぐにわかる、今までたわまがで多く読んできた現代の戯曲とギリシャ悲劇などの古典劇の間の大きな違いは独白の多さと長さです。物語は主人公メーデイアの心の葛藤が主軸となっていますが、作品にはメーデイア自身の長い独白が数回登場し、揺れ動く心情を描き出しています。そもそも「言葉の演劇」ともいわれるギリシャ悲劇は、動作よりも台詞で伝える部分が大きいという特徴を持っていますが、一文あるいは一言の台詞の繰り返しによる台詞回しに慣れた私達にはかなり異質な印象を与えます。独白は「演劇の華」だと私はなんとなく感じていましたが、確かにいままで現代劇を観たりやったりする中であまりみかけなかったことを再認識しました。

 一方で、長い独白の部分と対話の部分の使い分けについて指摘がありました。ギリシャ悲劇にはスティコミューティアー(一行対話)という、一行ごとに話者が入れ替わる、テンポのいいスタイルも持っています。やはり、スピード感や緊張感が必要なシーンに用いられているので、こちらは私達の感覚にもしっくりきます。ラストシーン近くで、イアソンが我が子を殺したメーデイアと対話するシーンでは、「普通の夫婦ゲンカみたい!」という意見が。確かに私達にとってもリアリティのある内容とテンポを持ち合わせています。

 このラストシーン、メーデイアが殺した自分の子供二人を抱えて竜が操る車に乗って現れ、イアソンを断罪して飛び去っていくというシーンですが、ここは研究者の間でも多様な議論が展開している場面で、それは「デウス・エクス・マーキナー」に関するものです。デウス・エクス・マーキナーとは、ギリシャ悲劇の特徴的な演出のひとつで、物語の最後に神様が突然舞台に現れ、それまで展開していた舞台上の出来事に収束を与えて劇に終わりをもたらすというもので、いってみれば水戸黄門の印籠のような役割を持っているものです。この作品ではデウス・エクス・マーキナーのような演出が用いられているのは確かなんですが、通常神様が果たす役割の位置に主人公であるメーデイアが当てられています。メーデイアは自分の子供を殺すとはいえ、着た人間が突然燃え出す着物に塗る毒薬を作れるとはいえ、一応人間ですので、この作品は現存するギリシャ悲劇に表れるデウス・エクス・マーキナーの中で、唯一人間が神様役をこなしている作品ということになります。

 このように特徴的な場面ではありますが、話題になったのはその具体的な演出方法について。このシーンはどのように上演されたのでしょうか。「デウス・エクス・マーキナー」とはラテン語で「機械仕掛けの神」という意味で(古代ギリシャ語で書かれたギリシャ悲劇なのになぜラテン語?それはこの言葉を発明したアリストテレスの書物が伝統的にラテン語訳で読まれてきたことが理由なようです)、それはこれが「機械的に」物語を終わらせる演出として機能していたと同時に、実際にクレーンのような「機械」を使って神様が空を飛んで登場するかのような演出が用いられていたらしいことに由来するとされています。今でいうと、ジャニーズのミュージカルとか、スーパー歌舞伎のような感じでしょうか。実際はそんな派手に飛び回ったかどうかは疑わしい上、クレーンが使われたというのも実は確かではないのですが、この場面のメーデイアの迫力を考えるとそれを際だたせるような演出が有効なことは間違いないでしょう。

1月23日(土)『メーデイア』

14時〜、たわまがが開催されました。
今回の戯曲は、

エウリピデース作『メーデイア』

です。

 今回から、たわまがは演劇の歴史をたどる旅に出るようです。初回は西洋演劇のスタート地点、ギリシャ悲劇と向き合います。ギリシャの三大悲劇詩人の一人とされるエウリピデースによる『メーデイア』は、今から約2500年前のギリシャ、アテネの演劇祭で上演された作品です。大学でギリシャ悲劇を勉強しているメンバーから簡単な構造や物語の背景などの説明があったあと、早速みんなで読み始めます。ギリシャ悲劇にはメインの役者の台詞の間に、コロスと呼ばれる合唱隊の歌と踊りの部分がはさまれていますが、この部分は今回、全員での群読という形で読みます。詳細な演出についてわからない部分が多いギリシャ悲劇のこと、実際の上演でももしかしたら似た演出が用いられていたかも知れません。

 実は「大学でギリシャ悲劇を勉強しているメンバー」とは今書いてる私のことで、たわまがでギリシャ悲劇を読むというのもかなり私のリクエスト的な側面もあったりします。あまり古典作品に触れたことがないメンバーが多い中で、どんな反応が得られるのかを楽しみにして参加していました。

2010年1月16日土曜日

『ワールド・トレード・センター』検討ーその2ー

 個人的には、時事的な話題、内容(演劇、写真、建築)など、かなり好みのタイプの作品でしたが、少し主張に欠ける印象を持ちました。事件全体を俯瞰する見方がほしいというのも私の意見です。やはり、その後現在まで続く事件の影響に対して、演劇に限らず、いろんな人が様々な意見を述べて、それがひとつの現代社会を語る軸になっている現在の状況にあって、「こんな事件でしたよ」という客観的な視点をフラットな視点のつもりで提示するだけでは、上演する意味に乏しいのではないかと、感じていました。

 その後もう少し考えて、もう少し別の読みの視点を持つべきなのか、とも思いました。残念ながら上演を見た参加者はいませんでしたが、大きな段ボールをたくさん使った演出が用いられたようです。思えば、私がだいぶ前に見た燐光群の『ローゼ・ベルント』でも、たくさんの段ボールを使った演出がありました。軽くてすかすかで、移動を目的とする段ボールの性質は、スタティックな従来の舞台や演出に対抗する手段のように写ります。それは日本に「根」を持ちながらニューヨークで働く日本人編集者の「仮住まい」であり、同時に、最もスタティックであると考えられていた「ワールド・トレード・センター」が崩れ落ちたという事実と響きあって、彼らの「根」への不安、危うさをビジュアルに映し出していると考えられないでしょうか。

反則気味に個人的な意見を書いてしまいましたが、この辺で。
次回の開催も決まり、なんと次はギリシャ悲劇だそうですよ、楽しみです。

2010年1月6日水曜日

『ワールド・トレード・センター』検討

 劇中では、「9・11」がリアルタイムで進行するなかで、現場の足下にいる人々を取り巻く、交錯する情報や人々の様子が描かれます。上演時には実際にそういった経験をした役者が出演したそうで、それもまた劇の臨場感を高めます。

 9・11という、歴史的な評価が未だ定まらない事件を扱う上で、脚本家がどういった価値観でこの事件を見つめているかは、興味深いところです。坂手洋二の作品は、社会的に関心の高い主題をストレートに扱うという特徴があり、かなりメッセージ性の強い作品が多いようです。しかし今回の場合は、作家が自分の意見を投影するというよりも、事件を舞台上にいかにリアルに再現するか、という点に焦点が当てられているといえそうです。またそういった臨場感のなかで描かれる登場人物の人間性の様々な側面がこの作品を引き立てているといえるでしょう。とはいえこれだけ世の中を動かした近年最大のトピックなのだから、それをタイトルにするとなれば、その中の個々の人間ドラマだけでなく、事件を俯瞰する視点がほしいという意見もありました。

 「カタカナのワールド・トレード・センター」もこの作品の理解へのキーワードになりそうです。舞台となるのは、飛行機が突入したツインタワーのすぐ近くの日本人を中心とした出版社です。さらに、劇中では日本文化や日本語の特徴など、ローカリティについての話題が繰り返し出てきます。被害にあった地域の特性上、世界中の人々が巻き込まれた事件の渦中に交わされるこのような会話にはどのような意図があるのでしょうか。

 ブロードウェーでアンダースタディ、代役の仕事をしているジャニーの存在も気になります。この、「アンダースタディ」という聞き慣れない言葉が非常に多く劇中の会話に登場します。ブロードウェーでは公演の主役には必ず代役が控えているというシステムがあるそうですが、ここまでこの仕事が強調されるのはなぜでしょうか。メンバーからあがったのが、代役という仕事の性質が、演劇そのものの世界を代理、表象するという性質と関わりがあるという指摘です。しかし、これが今回の作品とどう関わるかまでは議論は進みませんでした。

 今回は若干時間が限られていたのと、途中人の入れ替わりがあったりして、多彩な意見が出るには少し厳しい環境だったかも。今回のようにとても「具体的な」テーマを扱った作品だと、たとえばこの事件に関する予備知識などもある程度、作品について語る上で要求されるのかも知れません。

1月4日(月)『ワールド・トレード・センター』

14時〜、「たわまが」が開催されました。
今回の戯曲は、

坂手洋二作『ワールド・トレード・センター』

です。


さて、たわまが開催もはや15回目ぐらいだそうです。前回の活動報告(『毛皮のマリー』)からかなり間が開きましたが、その間にも着々と開催されていました。私個人は久しぶりの参加で、結構張り切って望みました。参加者は6名。冒頭には主宰関口より年頭の挨拶、今年の方針などのお話しがあり、新年らしいスタートを切った「たわまが」です。コンスタントな活動と団体運営の効率化を通して、身近なところから知名度を広げていき、飛躍につなげていきたい、という感じだったかと。

さて、今回読むのは、現代の日本の戯曲界きっての社会派、坂手洋二の作品で、彼の劇団「燐光群」の25周年記念公演として2007年に上演されたかなり最近の戯曲です。センセーショナルなタイトルがまず目を引きます。2001年の「同時多発テロ」、もちろん参加者全員がリアルタイムで事件を知っていて、記憶も鮮やかです。上演時も見た人の多くが私達と同じような感覚だったと想像できますが、そのような人々にこの作品は何を訴えかけているのでしょうか。

個人的にこの事件で思い出すのは、ウィンドウズの絵文字のフォントでキーボードの「911」を入力すると、2本のビルに飛行機が飛んでいく絵になるという。。。初めてやったときはなんかゾッとしましたね。