2010年4月4日日曜日

『シャクンタラー姫』検討ーその2ー

・構造主義ー民俗学

 一転、なにやら難しそうな話ですが、、、実は今回のたわまがは、構造主義についての話から始まりました。きっかけは参加メンバーのひとりがこの本を読んだということからだったのですが、グッドタイミング。

 「構造主義」ってなんでしょう?構造主義全体の説明はここでは省略して(手に負えない!)、『シャクンタラー姫』との関わりの中で考えてみましょう。

 前項で書いてきたように、『シャクンタラー姫』は、私達にはない異国情緒あふれる独特な感覚に満ちていて、それを私は「オリエンタルな空気」と書いたりしました。しかしこの作品を作ったカーリダーサにしてみれば、当然のことながら異国情緒を描きたかったのではなく、自分の国に伝わる神話の、なじみ深い世界の中で展開されるエピソードを元に、「自分の世界の物語」として描いたはずです。それを読む私達がその作品の視点を省みず、「異国情緒」のわけのわからない美しさ、としてしか読まないとすれば、その読みは作品を理解する上で大きな欠点を抱えているということが出来るでしょう。
 
 この異国情緒の感覚については、以前、坂手洋二の『ワールド・トレード・センター』を読んだ際にも、そのときはパレスチナとイスラエルをめぐる議論で話題に上ったパレスチナ出身の文学者エドワード・サイードがその主著である『オリエンタリズム』の中で批判的分析を行っています。それによれば、西洋における「オリエンタリズム(東洋趣味)」は、西洋の主体構築の過程で必要であった「対象」として、西洋世界が彼らの「不気味なもの」といったような異質なイメージを東洋に押しつけた結果として生み出された「作られたイメージ」であるといいます。つまり、私達が『シャクンタラー姫』をより理解したいと思うとき、無批判に「マンゴーの蕾、なんて美しいんだ!!」のように「異質なイメージ」の観点から読むならば、そこにサイードのいうような差別的な視点、あるいは差別の「構造」があるのかどうか、検証が必要であるということになります。

 このように、自分自身や読む作品や作品に関わる人々(作者や登場人物など)がどんな「構造」をもって考えているのかを比較、分析することによって、私達は「マンゴーの蕾」が持つ意味をより広く理解することが出来るようになるでしょう。残念ながら、今回のたわまがではそれを詳細に検討するまでには至りませんでしたが、このように私達が作品を読む中で感動したり不快に思ったりする、その無意識の感覚にも、私達が生きてきた社会や環境の中で得てきた様々な「構造」があるということを、常に意識していきたいと思います。

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