2010年2月7日日曜日

『メーデイア』検討

 まず読んですぐにわかる、今までたわまがで多く読んできた現代の戯曲とギリシャ悲劇などの古典劇の間の大きな違いは独白の多さと長さです。物語は主人公メーデイアの心の葛藤が主軸となっていますが、作品にはメーデイア自身の長い独白が数回登場し、揺れ動く心情を描き出しています。そもそも「言葉の演劇」ともいわれるギリシャ悲劇は、動作よりも台詞で伝える部分が大きいという特徴を持っていますが、一文あるいは一言の台詞の繰り返しによる台詞回しに慣れた私達にはかなり異質な印象を与えます。独白は「演劇の華」だと私はなんとなく感じていましたが、確かにいままで現代劇を観たりやったりする中であまりみかけなかったことを再認識しました。

 一方で、長い独白の部分と対話の部分の使い分けについて指摘がありました。ギリシャ悲劇にはスティコミューティアー(一行対話)という、一行ごとに話者が入れ替わる、テンポのいいスタイルも持っています。やはり、スピード感や緊張感が必要なシーンに用いられているので、こちらは私達の感覚にもしっくりきます。ラストシーン近くで、イアソンが我が子を殺したメーデイアと対話するシーンでは、「普通の夫婦ゲンカみたい!」という意見が。確かに私達にとってもリアリティのある内容とテンポを持ち合わせています。

 このラストシーン、メーデイアが殺した自分の子供二人を抱えて竜が操る車に乗って現れ、イアソンを断罪して飛び去っていくというシーンですが、ここは研究者の間でも多様な議論が展開している場面で、それは「デウス・エクス・マーキナー」に関するものです。デウス・エクス・マーキナーとは、ギリシャ悲劇の特徴的な演出のひとつで、物語の最後に神様が突然舞台に現れ、それまで展開していた舞台上の出来事に収束を与えて劇に終わりをもたらすというもので、いってみれば水戸黄門の印籠のような役割を持っているものです。この作品ではデウス・エクス・マーキナーのような演出が用いられているのは確かなんですが、通常神様が果たす役割の位置に主人公であるメーデイアが当てられています。メーデイアは自分の子供を殺すとはいえ、着た人間が突然燃え出す着物に塗る毒薬を作れるとはいえ、一応人間ですので、この作品は現存するギリシャ悲劇に表れるデウス・エクス・マーキナーの中で、唯一人間が神様役をこなしている作品ということになります。

 このように特徴的な場面ではありますが、話題になったのはその具体的な演出方法について。このシーンはどのように上演されたのでしょうか。「デウス・エクス・マーキナー」とはラテン語で「機械仕掛けの神」という意味で(古代ギリシャ語で書かれたギリシャ悲劇なのになぜラテン語?それはこの言葉を発明したアリストテレスの書物が伝統的にラテン語訳で読まれてきたことが理由なようです)、それはこれが「機械的に」物語を終わらせる演出として機能していたと同時に、実際にクレーンのような「機械」を使って神様が空を飛んで登場するかのような演出が用いられていたらしいことに由来するとされています。今でいうと、ジャニーズのミュージカルとか、スーパー歌舞伎のような感じでしょうか。実際はそんな派手に飛び回ったかどうかは疑わしい上、クレーンが使われたというのも実は確かではないのですが、この場面のメーデイアの迫力を考えるとそれを際だたせるような演出が有効なことは間違いないでしょう。

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