2010年2月24日水曜日

『人間ぎらい』検討ーその1ー

 話のテーマは他愛のない男女のいざこざで、デフォルメされた登場人物それぞれのキャラクターがおもしろおかしく描かれます。くだらないといってしまえばそれまでですが、いつの時代もこういう種類の話題が興味の的になるのだなあと、恋愛というテーマの普遍性を感じます。

 現代の私達が読んでも笑える台詞ややりとりもしばしば出てきます。ただ、私達が笑っているところを昔のフランス人も同様に笑っていたかは未知数で、その逆で昔のフランス人が大爆笑していたところを私達が素通りしていることも考えられます。そんなことを感じるのが登場人物達が自作の詩を批評しあう場面。物語の中ではこの詩の評価をめぐって裁判沙汰になるという何ともめちゃくちゃな展開を見せるのですが、主人公アルセストがこき下ろすオロントの自作の詩の「ひどさ」がいまいちピンとこないんですね。あるいはそんなにひどくもない詩に対してひどいことをいうことで、アルセストのひねくれた性格が強調されているのかも。詩の翻訳ほど難しいものもないかと思いますが、原文にあたる語学力がない者にとってはつらいところです。

 現代とのドラマツルギー感覚の違いはやはり話題になります。主人公の描かれ方が今の感覚と違うという指摘は興味深いですね。つまり、最近の物語だと主人公の成長とか心境の変化とかが物語の軸になることが多い一方で、『人間ぎらい』のアルセストは最初から最後まで頑固一徹、最後は田舎に引きこもると唐突に宣言して幕となります。この主人公の変化のなさが物語になるというのが今の感覚とずれているという意見が出て、さらにそれについて、コメディア・デラルテなど中世演劇のストックキャラクターの伝統の影響を指摘する意見が出ました。観点はかなり独創的ですが、当時のフランス宮廷でコメディア・デラルテが人気を博していた事などを鑑みれば、かなり的を射た意見といえるかも知れません。他にも時代的にはシェイクスピアとの関係も気になるところですが、もう少し知識が必要になるので今後の課題ですね。

 モリエールの喜劇について、彼の演劇史における功績はなにかという話。「ありのままの人間」を描いて見せたところに彼の新しさがあったのだという事について、『人間ぎらい』ではどのように人間が描かれているかというと、それはもう皮肉たっぷりに貴族社会が描かれています。誰にでも愛想を振りまく一方、当人のいないところでは陰口をたたきまくるセリメーヌのキャラクターはもちろん、彼女を取り巻く男性達はみんな戯画化されて「貴族によくあるタイプ」の人間を描き出しています。このようなシニカルな視点を作家が持っていたこと、そしてそれが当時の宮廷で人気を博したこと(太陽王ルイ14世の前で上演されたのです。)は面白い事実です。当時の貴族も豪華なドレスに仮面舞踏会、天蓋付きベッドで「パンがなければケーキを食べればいいじゃない!」みたいな生活をしながらも、「このままじゃいけないわ」と思っていた人も結構いたらしいということでしょうか。

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