2010年2月25日木曜日

『人間ぎらい』検討ーその2ー

 このように、「当時の現代」の貴族の姿をシニカルでありながらもリアルに描いたところにモリエールのおもしろさがありそうです。社会風刺は喜劇の常套手段ですが、『人間ぎらい』のそれはかなり辛辣です。アルセストは自分の潔癖な性格とセリメーヌへの恋心の間にはさまれて破滅していくかのようです。途中の滑稽な台詞回しが無ければ悲劇にもなるような、トラジコメディー的な要素を持っています。しかし全体としてはこの作品はやはりまぎれもない喜劇となっているでしょう。セリメーヌの「割り切った性格」や男達の間抜けぶりが喜劇的であるのはもちろんですが、物語の筋においてこの作品が喜劇であることに重要な役割を果たしているのは、アルセストの友人である好青年フィラントです。彼がアルセストが困難な状況に陥るたびに、「正論のアドバイス」を差し伸べます。結局いつもアルセストは彼の助言に反して自分をさらなる困難に陥らせる方を選んでしまうのですが、このフィラントの助言があることによって、必然的に破滅への道を選ばざるを得ないような「悲劇的な」状況と異なり、アルセストは常に正しい方向を選ぶ可能性を示されながら、自ら進んで困難に足をつっこんでいくように描かれているのです。観ている人間としては「こりゃ自業自得だ。」と思ったことでしょう。このフィラントの役割について漫才のツッコミのようだというのは言い得て妙で、なんとなく納得してしまいます。アルセストは「なんでやねん」「どないやねん」とフィラントにつっこまれながら、それでもボケ倒していきます。

 この作品に結末らしい結末は用意されていません。これまで見てきたとおり主人公が改心するわけでもなければ、劇的なラストシーンがあるわけでもありません。これもまるで漫才のようです。

アルセスト「もう俺は田舎にひっこんでやる!」
フィラント「もうええわ。」
二人   「どうもありがとうございました。」

17世紀フランスの貴族文化と21世紀日本の大衆文化が呼応するのは単純に楽しい発見です。いつの時代も笑いのツボは変わらないのですね。

 最後に、この時代とその前後の演劇をめぐる状況についての話題になりました。モリエールと同時代の劇作家としてはコルネイユとラシーヌをあげることが出来ます。二人とも悲劇作家ではありますがほぼ同時代を生きた人物です。この時代はフランスブルボン朝の絶頂期に当たります。貴族が最も豊かだった時代にフランス演劇の三大巨頭が現れたことは偶然ではありません。しかし、ありのままの人間を描くというモリエールの態度には、その後の啓蒙主義の時代を予感させるものがあるように思われますが、どうでしょう?

 演劇の歴史を追う時、中世ヨーロッパの「層の薄さ」は思わず「暗黒時代」という言葉を使いたくなるほどのものです。ましてテキストとして今日まで伝わっているものとなれば、いわんやなんとかをや、です。しかし、教会という文字通り聖域の中で大切に守られていた演劇がありました。次回のテーマはイギリス道徳劇。ハードルの高さを恐れないところがたわまがの強みです。

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