2009年7月6日月曜日

『毛皮のマリー』検討−その3はおまけ−

これからはファミレスに場所を移して、まあいわゆる2次会ですw。
若干のアルコールを摂取しつつ。。。

今回は8名中3名が初参加ということで、
フレッシュな顔ぶれでの「たわまが」になりました。
これからもどんどん新メンバーを集めていきたいと思います。

さて、ファミレスでも話す内容はさほど変わらず、
さっきのカーテンコールの話の延長で、、、

演劇においていかにファンタジーを作り出すかという話は、
あるいは、こんな視点からも語ることができます。
現在の演劇は商業的な要素と切り離して考えることはできませんが、
(宣伝や広告など。それは入場無料の公演であってもまたしかりです。)
ポスターとか、ウェブサイトとかといった要素は、お芝居の作り出す
ファンタジーにどう影響すべきなのでしょうか。
そもそも影響すべきなのでしょうか?

お芝居の世界と現実の世界をはっきりと分けようとするのが、
ファンタジーを作り出す際の基本的な態度(いかに観客に夢を見せるか)だと
思いますが、もちろんそれだけが演劇ではありません。
逆にその境界を溶かして見せようというモチベーションは、
近代以降の西洋演劇の重要な特徴といえます。
演劇の起源を宗教的な儀礼の求めるのであれば、
演劇が始まったその時点が、もっともファンタジックな空間を作り出していた、
といえるかもしれません。(ワインが血に変わる!)
それ以降演劇は、舞台上のファンタジーに磨きをかけていくのですが、
一方観客は、どんどんファンタジーの外へと、より「ただの観客」になっていく。
舞台上では完全な一つの世界ができているのに、
劇場全体は非常に現実的な、政治的な構造ができあがっている。
この一見奇妙なねじれ現象が、今回の「カーテンコール問題」を
理解しづらくしていたように思います。

今度は「魔術」。
バッカスの力か、だんだん話が怪しくなっていきます。
演劇の起源が宗教儀礼なら、演劇のファンタジーは一種の魔術である、と。
観客にかけた魔術は、最後に解いてあげないと儀礼は完了しないのです。
解いてあげない魔術は「怪しい魔術」で、
『毛皮のマリー』はそれをやろうとしているのだという解釈は、
とても興味深いものがあります。だから「最後の晩餐」。
寺山修司が澁澤龍彦とかと親しかった(そして”あのミワさん”が演じた!)
ことを考えると、全く的外れともいえなさそうです。


もはや、『毛皮のマリー』は関係なりつつありますが、
話はまだまだ続きます。

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