2009年7月6日月曜日

『毛皮のマリー』検討−その1−

ここからはみんなで自由に感想、読解を披露し合います。
当然ネタバレ注意です。(以下の記述には、物語の結末や・・・、です。)

まず話題となったのは、やはりこの戯曲の「エロさ」について。
戯曲の随所にちりばめられた性的な描写は、
「今回のテーマは『勃起』!」という発言も出るほど。
同性愛、少年愛、近親相姦など、性愛の濃密な空気が劇中に充満しています。
エロいだけでなく、そこから匂い立つ「妖しい美しさ」も大きな特徴です。
非常に視覚的な芝居だという意見も当然と思われますが、
ここは「読むだけ」の私たちにとってはつらいところ。

でも、、、裸の男が絡み合っているお芝居というのは、
学生劇団を中心に演劇をやっている私たちにとって、
上演しようと思っても、実際、難しいところです。
それが「読むだけ」なら、ものすごい情景を思い浮かべればいいのですから、
逆に有利かもしれない!そんなことを考えつつ、、、(黙れ小僧!!)

しかし、ビジュアル一辺倒な理解はするべきでないという意見も。
また、60年代後半という時代を汲んで、
当時と現在とでは性のとらえ方が異なるのではないか、
とする問題提起もありました。
おもしろい意見としては、
「男性同士だから、舞台上で純粋なエロスを表現できる」というもの。
男女が舞台上でセックスをしていたらお客さんは恥ずかしくって見られない、
だけど、男性同士のそれであれば、観客は文学的エロスを読み取るのだ、
というのですが、みなさんどうでしょう?


話は、プロット(話の筋)についてへと移っていきます。
マリーと美少年欣也の関係を軸に物語は進みますが、
その関係のとらえ方は内容理解に大きく影響するでしょう。
とりわけ問題になったのは最後の場面。
一度はマリーの檻からぬけ出した欣也は、マリーの呼び声に応じて
あっさり(そう読めるでしょう)戻ってきてしまいます。
この理由は何なのか?この戯曲の最大ともいえる問題です。
この結末は、意外だったとする人とすんなり受け入れた人とで意見が割れました。

この問題を話す中で、話は徐々に広がりを見せていき、
上演当時の、あるいは作家の「家族観」へと及びます。
寺山自身の生い立ちや発言などから、作家が40年前の時点ですでに、
かなりフレキシブルな家族観を持っていたことが想像されるのですが、
それがどのような形でこの作品に表れているのか。最後のシーンは、
それを解明する大きなヒントになりそうです。

とっかかりとして、現代の家族像との比較が話の道筋をわかりやすくしてくれます。
核家族、母子家庭、あるいは家族内の様々な問題についてなど、
現代社会ではかなりオープンに語られるようになったテーマが、
この戯曲には隠れているということができるかもしれません。
初演当時の社会一般で、どれだけ伝統的な家族観が強力に根付いていたかを
詳しく知ることは私たちがこの場で明らかにできる範囲を超えてしまいます。
しかし、性倒錯、暴力、あるいは間接的にせよ殺人、
によって生まれた家族というモチーフが、
当時の社会にとって暴力的であったことは、想像に難くありません。

そのような家族に結局は依存せざるを得なかった欣也。
DVの被害者が加害者の元をなかなか離れられない、とか、
いじめられっ子がいじめっ子に呼ばれるとニコニコついて行ってしまうこと、とか、
身近な類例があがります。
結局家族に帰ってくるという点では、
この戯曲は家族制度を維持して終わっているという意見も。
マリーの母性と父性の両面的な性質、加えて欣也との性的な結びつき、
退廃的な家族という牢獄の中で、欣也は少女へと変身を遂げて幕が降ります。
イミシンすぎる。。。

結論には至りませんでしたが、理解は深まったのではないかと。。。
話はまだまだ続きます。

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