2009年7月6日月曜日

『毛皮のマリー』検討−その2−

次の話題は、演出について。
「たわまが」はドラマリーディングサークルですが、
ほとんどのメンバーは実際の演劇の経験がある人達です。
なので、戯曲を前にすれば当然、実際の上演方法について話が及びます。
全体的な演出の方向性についてはやはり、「カラダ」をいかに美しく見せるか、
という話になっちゃいます。
一方で、「今」上演するならば、この「美しさ」が浮いてしまうのではないか、
という意見も出ました。
確かに、人間の身体をリアルに描くとするならば、
汚く、泥臭く描く方が今風かもしれません。
でも、この戯曲にはそれは通用しなさそうですね。

大正五十七年(=1967年)という時代設定から読めるノスタルジーだとか、
抽象的な舞台装置にショッキングピンクのバスタブがあって、とか、
具体的な演出の案も出てきました。
ただ、やはりあまり議論は深まらず。
メンバーそれぞれの頭の中には、バラ色の世界が広がっていると思うのですが、
なかなか具体的なかたちにするのは難しいのかもしれません。
私たちはまだ、作品の世界観について行けてないのかも。

解釈の方向から行くと、おもしろい話が出てきました。
ひとつは、美少女紋白は、欣也の想像上の存在ではないかというもの。
解釈の一つとしてはアリだと思いますが、それを元に上演すれば、
この作品のファンタジックな側面がより強調されそうで、
寺山修司の描く世界としてもなかなかふさわしいように思います。
もうひとつは、「観客が共感するように作ってはいけない!」という、
少々過激な意見。
理解を超えた世界を提示していることこそ、
この作品のオリジナリティだ、ということでしょうか。
前半の家族観についての議論と併せて考えると、
描かれる「家族」に対する反発(「こんなの家族じゃない!」)や、
擁護(「それでも彼らにはそれしかないのだ。」)といった、
理性的な反応の「外」に、この作品の主題を置くことになります。
確かに、そのような何か(オーラw)をこの作品からは感じます。


さて、最後に盛り上がったのは「カーテンコール」について。
この作品の最後、「ゆっくりと幕になる」のさらにあと、
役者達はカーテンコールで、歌を歌いながら、
最後の晩餐のポーズをとって並ぶという台本の指示があります。
そして、本当の「幕」となるわけですが、
これは作品そのものの完璧なファンタジーを作る意図と
矛盾するのではないか、という指摘がありました。
物語の外なのか、中なのか、存在が曖昧な演出の挿入によって、
現実と切り離されていた物語の世界が、我々の世界と混ざり合い、
物語のビジョンが濁ってしまうのではないかと。
これについては意外なほど話が盛り上がりまして、
・ただの悪ふざけ説
・まさに現実を浸食したいのだ、説
・舞台上で行われる以上、ファンタジーの一部をなすのだ、説
など、様々な意見が出ました。
これも結論を出す性質の問題ではなさそうです。
ただ、カーテンコールですら演劇の枠組みの一部として、
油断せずに考える態度は大切にしていきたいですね。


今回の「たわまが」の全体的な印象としては、
思いの外、「知的な」議論に方向が集中していた、という印象です。
メンバーの中には議論に参加しづらかった人もいたようで、そこは残念なところ。
最近若干この流れが続いている気もします。
たまには気楽に読める作品も読みたいですね。
寺山修司は、結構そういうつもりで選んだような気もするのですが。
どんな作品でも、難しく読もうと思えばできるものです。

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